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2009年10月 2日 (金)

常識の下と上と、、、

 昨日の講習会や、業務、或いは、趣味で思う事。
 それは、常識という考え方だ。常識といっても道徳的な意味合いでなく、モノの道理についての話。自分が知っているかどうか?でなく、全く別の意味での話。

 そんな世界での常識の定義は何か?っていうと、自分が知っているかどうかは別として、一般に既知の事実かどうか?の考え方で、既知の事実や論理の事を常識と判断している。

 そんな既知の事実=常識と捉えれば、既知の事実は、個人にとっては未知の内容であっても、その世界では知られているとすれば、その中身はやはり常識だと言えよう。この考え方というか、常識って状態の捉え方は至って全うな考えである。一般に、常識を身に付けるという言葉があるけど、それは身に付ければ備わらないモノという意味においても、当人に身に付いている如何に関わらず常識が存在すると言う事だからだ。

 さて、そんな定義で常識を見つめて、色んなモノ、製品、方法、方案、開発、研究といったモノを見てみると、組織というか社会は、常識に対して二通りの存在があるようだ。

 一つは、既知の常識を身に付けていないエリアである。

 この世界では、既知の論理に整合性を伴わない考え方に満ちあふれているものであり、取り敢えず、それでも問題が生じていないというモノから成立している。そう、常識が足りていない世界だ。勿論、その世界に長く属していれば、その無知を含んだ思想自体を常識と捉えているかもしれないが、それは或る意味、とても怖い事だ。その世界の方法論は、常識、つまり、既知の論理から逸脱したモノが多かったりする。

 もう一つは、既知の常識を身に付けたエリアである。

 この世界では、少なくとも既知の論理に対する整合性を持つモノから構成されており、その常識を満たした上で、更に上を目指す世界だ。ここで生まれるモノは、常識では測れないという意味で、独創性と言える。勿論、独創性があっても、その要素は常識の積み重ねであり、常識で説明出来るのは言うまでもない。

 そう分けると、常識の上か下かで世界は大きく異なっているように見える。これから、必要なのは、既知の論理を理解した上での独創性であり、それが無ければ、乗り切れない、、、、そんなイメージだ。

 最近、後進国の追い上げに対して、技術開発云々って言葉をメディアやニュースで耳にするけど、開発する技術とは、既知の論理の上で成り立った新しい考え方であり、あくまでも、新しい考え方は、常識の延長にあるものだが、それは既知の常識を持たないモノには絶対に生み出せないモノ。そういう意味で、一番大切なのは、教育であり、常識の延長に生まれるかも知れないモノを探す根気強さかな?と考えたりする。

 昨日の講習会で、エンジニアの苦労話を聞いて思ったのがそういう感想だ。

 例えば、効率という言葉一つで、高効率を実現するという抽象性があったとする。高効率とは何を持って高効率か?効率を阻害する要因は何か?その支配原因は何か?と原因を探る事が第一で、見方を物理的な見地、熱的、化学的見地から見て問題を潰す行為が常識に則った作業。
 開発という言葉は、そんな常識を前提として、根本を取り除くような構造的な工夫であったり、物性改善のための材質的は変更というターゲットを絞った上での構成のリビルド等によって為されるモノ。

 突拍子が無かったり、或いは、常識を逸脱しては結果を得る事は出来ない。

 車のエンジン等で、多気筒=高性能という理解のみで、4000ccの8気筒をベースに普通車、軽自動車のエンジンを8気筒で作るなんて方法は誰も取らないが、常識が無ければやりかねない。価格重視の分野で必要性能が決められた中で、性能が足らないから多気筒化に走るという考えもコスト負担を招くモノ。
 でも、基礎的な常識を理解していなければ、そんな非常識を普通に行うところも、案外少なくない。そんな印象だ。

 歳や経歴、役職といった邪魔なモノが身に付くと、自分の知らない事を認めたくなくなるモノ。知らない事は認めないという考え方は、己の無知を認めない事でもある。それ故に、知らない事は取り入れない、見ないという状況に陥りがち。すると、進歩が止まる。そいう意見を黙殺しても進歩が滞る。そんなモンだ。しかし、それでは、自分の知らない世間でいう常識レベルの事さえもが理解出来なくなる。結果、どうなるか、時代遅れで通用しなくなるのだ。

 先端、先進という言葉は相対的な意味。つまり、常識より一歩先んじている状態。そして、皆の取り組みにより昔の未知は今の既知となっており、常識は常に進んでいる。そう、先端や先進を維持するには、少なくとも進歩し続ける常識には付いて行かなければならない。そういう意味で、常識外れとならないようにするには、常識を身に付ける取り組みを怠ることは出来ないもの。そのために必要な事は、個人の場合は、常に常識や知識を追求する好奇心を維持する事であり、組織の場合は、活発な新陳代謝を意味する世代交代である。
 逆に言えば、好奇心を持って独創性を発揮する方法を知らなかったり、膠着化した組織は、或る意味、死んでいる状態とも言えるのかもしれない。

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コメント

そう言えば、MVX250Fなんて迷車がありましたね、、、、でも、それなりに後期型は完成されてましたし、MVX400F改めNS400Rは結構マトモだったようにも思います。

二輪車の場合、マルチシリンダー=宣伝効果として絶大故に、あんなモノが生まれたのでしょうが、当時的にも真ん中一気筒のコンロッドだけ重量が二倍で他の二気筒とバランスを取るのは素人目にもビックリしたのは覚えています。

投稿: 壱源 | 2009年10月 2日 (金) 19時56分

性能的に2気筒で問題無いのに見た目なのか技術力の誇示なのか、V3にして焼き付きを多発したMVX250、みたいなマイナス開発?がかなり有ったと思います。

私にはわかりませんが、性能に関係無くてもより多気筒みたいなことはあるのでしょう。

投稿: yama | 2009年10月 2日 (金) 18時14分

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