衰えから生き方を考えてみる。
不惑を過ぎて、衰えを感じる事が多い。具体的には視力の衰え、知識の旧態化だ。視力の衰えは、作業の集中力維持に大きなハンディとなるし、知識の旧態化は新しい常識的な知識不足による先見能力の衰えに直結する。
心では、未だ大丈夫!と思う反面、知識が古いなぁと思ったり、視力の衰えによってプログラムを行う事も億劫だし、実際に作業して小さなものを見つめるのも難しくなっている。体力的にも、不惑を過ぎてからは午前1時になると目を開けておく事自体が困難だ。少なくとも10年前は2日程度の完全徹夜は楽勝で、大学院の修士論文発表前は三日完徹を行ってもなお、余力があったけど、今では絶対不可能だ。
そう考えると、身体自体が、過去の20年に行ってきたような作業を行う事が容易な身体ではなくなっているとも捉える事が出来る。逆に言えば、これからは、これまでの過ごし方をすべきでないという摂理的なモノを感じるのである。
そう考えて、人生と言うモノを考えてみると、人生は20年刻みで4クールに分かれているとも言える。
1.第一期(誕生~成人、就職迄)
心身の成長、知識の蓄積の時期。
2.第二期(就職~老化兆候期、成人病症状発症期、不惑の頃迄)
知識的にも、機能的にも、体力的にも実践的に活動できる時期。企業活動、研究活動でも実働部隊。
3.第三期(老化兆候期~定年退職期、還暦の頃迄)
知識的にも、機能的にも、体力的にも一線で実働するには障害が現れ始める時期。第二期を迎えた世代をマネージメントする管理世代。
4.第四期(還暦、退職~)
身体の衰え、知識の陳腐化により時代をリードする事が困難な時期。過去の総括を次世代に伝える準備を行う時期。
自分は既に第三期に入っており、言ってみれば第二期におけるような活動はすべきでないとも言えるのである。
心のどこかでは、未だ実働したいという気持ちも無くはないが、自分の知識も世間の常識から見ると随分と遅れているのが現実であり、過去と同等の活動を行うには、知識のブラッシュアップが必要で、教育機関で再教育を受けないと難しいように思う。
それは現実的でない選択ならば、これからは、マネージメントする側、或いは、出来る環境で生きるような進み方を見つけなければならないようだ。
また、生理的に考えても、第一期で完成した身体機能を、第二期の酷使で痛めつけて色んな疾病や老化現象に見舞われる訳だ。第二期の20年を掛けて機能を傷付けてきたとも言える。第三期は傷付けた機能を修復する期間だ。20年掛けて崩したコンディションを回復させるには、やはり20年掛けて第四期迄に元に戻すのが大事。何事も急激な変化はNGだ。そうすることで、第四期を自分のために元気に使えるのだ。
だから、社会的にも生理的にも不惑というのは転換点であり、それは本能的に作用しているようにも感じる。実際、自分の場合、不惑を過ぎたら、能力を外向きに使っていた生き方が自然と内向きに使うような生活に変わっている。それが、健康への意識にも現れている。
今の考え方、生活のシフトというのは、なるべくしてなった、、、そんな宿命的な変化とも思える訳だ。
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