何処まで、何時まで教えるべきだろうか?
愚痴でも何でも無いのだが、最近思うことがある。
それは、仕事でも、趣味でも、遊びでも、、、色んな分野において、何かするに付け、コレどう?次はどうする?コレ何?コレはOK?って聞く人が剰りにも多いって事。
コレ何?アレ何?って聞いてきて、笑顔で教えてやる奴というか、そういう環境っていうのは何?っていうと、聞き手にとって初めての経験や初めて見たモノに対する指南を行う時に限るのである。具体的に言うと、自分の子供、例えば二歳児の何?何?攻撃に対する対処である。繰り返しの質問に対して、同じ解答を繰り返し行うっていうのは、そういう状況しか有り得ないのだ。たとえ自分の子供であっても、言葉が通じて理解出来るような年齢、具体的には小学生以上のレベルであれば、二度目以降は同じ答えをする場合は、正直、腹が立つ事が多い。勿論、初めての質問に対する回答では、理解する迄、説明するけど、一度理解したならば、同じ事を何度も話す気にはならない。
これは、塾講師という立場であっても同じ。授業で説明を行う。説明に際しては、原則、聞き手が理解する迄、徹底的に教えるが、理解したと聞き手側を答えた以降に同じ質問をされると、正直、ムカツク事が少なくない。勿論、聞き手が理解出来たと判断出来ず、本人も理解していないと訴える場合は、なんとか理解のレベルに到達する迄、試行錯誤で理解する方法を伝え続けるのは言うまでもないが、、、、
こういう前提なのだ。
こういう前提で通常の生活ではどうか?っていうと、、、、、通常の生活における関係っていうのは、基本は師弟関係、親子関係ではない。基本は対等な関係なのだ。それは、趣味でも仕事でも言えること。
趣味においては、実践は自分のためであり、自分の理解を他人に伝える必要も無ければ、方向性に正誤は無い訳であり、それぞれが好き勝手すれば良いので、どうでも良いけど、業務においてはその限りではない。
業務というと、基本は行動の全ては、労働と、それに対する対価で給料を得るというのが、全ての人にとって言える事。そして、給料っていうのは、基本は、いろんな条件で決められている。そこでは、業務を委託する側は、そこでの事案に責任を負わせる事で対価としての給与を払っている訳であり、責任を負うって事は、担当する側は色々な判断が委ねられていると言う事でもある。判断が委ねられると言う事は、判断するに見合った経験と経歴を有しているという前提な訳だ。その判断は、やはり担当者が行うべきで、それを正確に行えるという要件が報酬に直結している訳であり、判断するに必要な知識が欠損していたり、判断を自分で行わない、行えないというのは、辛口で言えば、報酬を得る要件を満たしているとは言えないと思うのである。それ故に、其処まで指南すべきか?というと、これは違うだろう(其処まで掘り下げて説明する意味は無いだろう)って思う事が、上司、部下に限らず思う事が多い。
人は最終的には自分で生きていく訳だ。生きていくっていうのは、遭遇する事案に決断を繰り返すということ。つまり、判断の繰り返しが人生を決めるのだ。そして、教育っていうのは、自分で自分の進む道を決める判断する能力や知識を身に付ける事なのだ。教育とか指南を受けるというか、受ける事が許されるのは、本当は社会に出るまでの話。それ以降、何かの不足に気付いたならば、その時点で自分で行うべきだと私は思う。逆説的に言えば、判断できないのに社会に出るというのは、辛口で言えば、或る意味ナンセンスとも言えるのではないだろうか?
まぁ、たわいのない独り言だ。
| 固定リンク
コメント
自転車、単車、車の改造というかカスタムの世界が面白いですね。
本来は、人と同じが嫌だから主張を踏まえて人との違いを出すのがカスタムだと思うのですが、今は、人の改造を格好良いと思い、人と同じにするのがカスタムだ!みたいな考え方が多いのには、正直、ビックリしています。
人の意見を真似たり、自分の考えと錯覚して言うのは、正直、見ていて滑稽だと思いますね。
投稿: 壱源 | 2009年11月13日 (金) 07時57分
みんなと同じでないと気がすまない人種が多いということでしょうか?
自転車メインのブログでも、ルック車などの安物卑下や人の受け売りみたいなことが多いです。
無理やり人と違う主張をする必要は無いですが、ひとの意見をそのまま垂れ流して何が面白いのかな?と思います。
投稿: yama | 2009年11月13日 (金) 06時45分