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2009年11月19日 (木)

老化の定義は?

 このところの記事を書きながら、気になり始めた事がある。
 それは、老化って言葉の定義だ。普通には、老いるって事だが、老いる事で機能が衰える。衰える理由を老化のためと片付けるのが普通なんだが、どこまでが老化?って考えると、明確な答えには行き着かない。

 老化の対義語としては成長があるが、成長というのは理解できる。しかし、成長点に到達したら老化というのは一寸イメージ出来ない。

 自分の感覚としては、成長→平衡(適応)→老衰という印象。成長とは読んで字の如く、個体が生物としての完成形に到る過程の変化を表し、老衰というのは完成形からの機能喪失を表す。生物の機能が完成形で保たれている期間というのは、種によって異なるだろうが、子孫を残し、習性として育てるという行為が在るモノについては、すくなくとも、その期間は成体の機能は維持されているのでは?と思うのである。具体的にいうと、生殖機能が整って、それが失われるまでの期間は少なくとも成体の機能は保持されているはずであり、更には、機能を失っても、その後の子の育てる期間は衰えが顕著となるのは理に適わないと思うのである。

 他にも、人体の寿命に関する説では、色んな話が飛び交っている。例えば、根拠が何か?が不明だが120~150年で各臓器が寿命を迎えるという話もあるし、テロメアに細胞分裂の回数が記録されており、それが上限に達した時に細胞分裂が行われなくなり死滅するという話もある。
 このテロメアって話は近年発見された成果だが、テロメアによって細胞分裂の上限が決められてもなお、個体による寿命に大きな差があるのは、単に、細胞分裂を必要とする、つまり、細胞更新の必要に迫られる期間が個体によって差があるのが理由だろう。細胞更新の必要性とは、つまり、細胞の損傷負荷に対する耐性次第であり、細胞自体を守る機能の個体差、細胞の曝されている環境の個体差によってもたらされると考えられる。

 つまり、テロメアという細胞分裂の回数券を減らさない?という事は、長持ちさせる事であり、少々の負荷には負けない強い細胞と、過剰な負荷を与えない生活が鍵なのは明らかである。
 このような機能的な限界は、個体差というよりも種毎に定義されていると考えるべきであり、種毎に定義されている物理的限界こそが、本当の意味での老化の定義に当て嵌まるのでは無いだろうか?少なくとも、個体の努力というか過ごし方で維持出来る機能というのは、それ以前に他の個体が機能を失っても、それは老化のためと言うには安直すぎるのは間違い無い。

 老化という言葉を簡単に口にするのは、多分、個体にとっての気持ち的に一番楽だからだろうと言える。

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コメント

こんばんは!
私も寿命は遺伝子に組み込まれていると思います。
でも、寿命を全うできるかどうかは個体次第だとも思いますし、その個体の行動パターン自体も遺伝子に組み込まれているかな?とも思います。

老化によって体力、記憶力等が衰えるのは事実ですが、老化はいつから始まるか?は、やっぱり判りません。

それと、個体が完成する前の成長過程での刺激は、成長で到達するレベルを決するものだと思います。それ故に、そのような刺激無しで機能を得なかった人は、成長期を過ぎて無茶な刺激を与えるのは故障に繋がるのは、やっぱり当然だと思います。
事実、自分も運動で掛ける負荷は、学生時代迄の実績以下に留めているのが現実です。

投稿: 壱源 | 2009年11月19日 (木) 23時12分

寿命は遺伝子にインプットされている、みたいな説もあり得るかなとは思います。

歳をとれば体力、思考力、記憶力が衰えるのは当然ですが、特に体力は無理が出来るのはある程度の年齢までで、それ以降からだと明らかに害がある、と思います。

高校大学の体育会などで限界的な運動を経験していないひとは特にやってはいけないのでは?

私も体育会に所属した事は無いので無理なこと(自転車で100kmとかシングルギアをすごく重くする等)はするつもりはありません。

投稿: yama | 2009年11月19日 (木) 21時32分

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