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2009年11月16日 (月)

自分でする。

 自分で考える事は大切だ。
 人と話して叱る時に頻繁に聞く言葉、、、、『考えています!』、、、、でも、いつも思う、、、それは、『ホントか?』という事。

 思い付きで、収拾の付かない戯言だが、先日のクローズアップ現代で取り上げられていた理科離れのニュースとか、身近に居る真似大好きオヤジとか、或るは、エライ人が集まって方針は話し合う会議とか、そういう場に居ると同じ事を考えてしまう。

 結局、色んな人が議論を交わしたり、学習したりするのは、何のためか?っていうと、自分に降りかかる問題に対する対処を決めるためである。降りかかる問題は、当人にとって未知故に問題であり、問題となるのは、当人固有の問題であり、対処方も人それぞれなのである。見えるモノは事実だけ。これは万人にとって共通なモノ。ただ、それに問題を感じるかどうかは、見る人次第なのだ。そして、解決策も人次第な筈。

 ネットや文書、雑誌から仕入れるべきは事実という事だけであり、策を仕入れる事自体に違和感を感じるのが自分の感覚。

 理科離れで『ゆとり世代』の知識不足が特集になっていたけど、ゆとり云々、習っている量が教える技量不足になっているのではなく、ゆとり世代に限らず、教える方法、学ぶ方法、目指す方向性が間違っているから教えられないだけという意見を以前述べたが、これに通ずる感覚だ。
 理科に限らず、知識を学ぶというのは、学ぶべき知識が未経験であっても、その知識を学ぶ前段の延長線上から新しい知識を脳内で構築し理解するのが大事であって、知識自体を字面的に暗記して、その法則を適応して理解度を判断するという考え方自体が過ちなのだ。

 知識といっても教育課程で高まる知識というのは、世間的には既知の内容である。その既知の内容を暗記的に詰め込む方法だけでは、詰め込まれた方は、詰め込む事しか教えられないし、詰め込まれた事の説明しか出来ない。もっと言えば、既知でなく、未知の問題には対処出来ないのである。
 大事なのは、学ぶ側にとって初めて目にする知識を、学ぶ側にとって既知の知識や常識を駆使してあぶり出させる事が大事なのだ。そのための手法が、知識の連動、相似性からルールを類推するというプロセスであり、その部分から新しい知識を体系として理解する事が新しい知識を学ぶという事だと考えている。
 つまり、知識として詰め込む量の問題でなく、知識を消化する方法論こそが重要なのである。

 既知の知識から未知の知識を理解するプロセスで、連想や類推という思考のネットワークが脳内に育まれるのである。連想や類推があるから、当人にとっての問題のあぶり出しと、当人にとっての対策が生まれるのである。それが、将来遭遇するであろう様々な事態での対応力や判断力になるのである。その結果の対応とか判断は、単純な事実を見た人が、固有の経験と知識から類推して生んだものであり、その判断を生む力こそが重要なのである。

 全ての学問、科目は、そのようなストーリーで成り立っている。大事なのは、事実から自分なりの判断を生み出す力である。人の判断や方法論に感想を述べたり賛同したりするだけの奴は、決して、自分の判断を生み出す事は出来ない。0(ゼロ)から1を生み出す力と、1を2にする力は別個のモノだ。人の真似、人の意見に右往左往する奴は、客観的な事実から答えを決定する事が出来ないのだが、それが、理科離れで教える事が出来ない教師であったり、他人の真似しか出来ない奴、人の意見への賛同を自分の考えと勘違いする奴では無いだろうか?

 情報過多の時代において、ネットでの交流も盛んだし、色んな文章を目にする事も出来る。でも、この利便性というのは、事実を集める点のみであり、弊害の方が多いとも言える。それは、情報の精度保証が何処にもない、嘘に溢れている、更には、ネットで配信されている個人の発進情報の多くは、書き手が事実から感じた感想を発信する場合もすくなくないけど、その発信された情報を読んで感想ばかり述べる奴が増える事だ。そういう奴は、本当に事実から自分の考えを生み出すチャンスを自覚出来ない内に失っており、結局、自分では何も出来ないドツボに自然と陥っていると言える。結果的には、接する情報は人の伝聞ばかりの筈なのだが、さぞ当人が知識を持っているかのような錯覚をしている耳年増になっており質の悪い出来損ないとなるしかない。

 まぁ、そうは言っても色んな人がいるのが社会だし、何が良いか?どうすべきか?は、一人一人が思う方向、出来る方向で過ごすのが一番であり、皆が皆同じ思想で生きる事も変な話しなのだ。誰もが、思うがままに過ごせば良い。

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コメント

事実や事件に対する意見や感想、考え方はアリだと思いますが、他人の意見に対する感想、考え方というのは基本的には無しだと思います。

事実に対する判断というのが大切であり、全ての判断を他人に任せる人を見ると、正直むかつきを感じる事が少なくありません。

投稿: 壱源 | 2009年11月16日 (月) 08時32分

人や本、ネットで得た知識を披露するな、なんてことを言う気はさらさら無いですが、さも自分独自の意見みたいに言うのはやっぱりダメでしょう。

特に物を評論する場合それを使ったことが有る、というのが基本中の基本でメーカーの売り文句、値段、(偏った)世間の評判を根拠にあれこれ言うのは友人との会話程度にとどめておいたほうがいいと思います。

投稿: yama | 2009年11月16日 (月) 07時25分

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