単車のメカニズム
単車で峠を走る。上り坂、下り坂とあるけど、どちらを走るにしても基本は、フロントタイヤに荷重は載っていても、フォークの自由度を奪うような腕の荷重は載せないのが鉄則。つまり、身体は腕で支えない。下半身で支える。下半身で支えながらも、重心位置を何処に持ち込むかを留意しながら身体の重心をコントロールする。つまり、アクションを開始する前の重心位置を身体の重心を動かす事で、新しい重心位置に移行させるような感覚。いってみれば、動きを不安定にしている。不安定な動きを解消するには、車体を安定させる。安定させるのは前輪に載せた荷重を抜く操作が必要。それがトラクション。トラクションを掛けるには、不安定な状態から安定した状態に移行させるための体位の入れ換えとアクセル操作だ。
そういう事を念頭に入れて、この動きを得るためには、アクションとして何を支配的に行うか?それを考える。そういう操作を行う時には、何が必要か?で見えたモノを取り入れる。そんな感じだ。
そういう考え方は、動作に留まらず、機構についても考える。速くアクセルを開けるためには、どういう挙動が必要か?その挙動を得るには何が適切か?それを考える。その操作を行う時、操作系の位置関係や作動性は何が大切か?何処を押さえるべきか?それこそが、個人の拘りであり、個人の実践を支えるバックボーンというか機材の要点だったりする。そして、機材やセッティングを作り出す時に、その拘りを最も近道に与えてくれる構成に何を選ぶべきか?が道具選びの第一歩である。
勿論、道具であるからには、それを使う場面で、どう使う?がイメージできていないと選べないから、そういう理想を描く事も大事なのである。
因みに、ここで考える事っていうのは、本に載っている事でなく、自分で行う上で感じた事に限定して考えるのが大事。人の話や一般論を欲張りに取り入れようとするほどに、自分の感覚で得たモノの情報が希薄になって、拘るべきモノが与えてくれる信号が感じ取れなくなるからだ。感じたモノを一つずつクリアにする。これが大事なのである。その積み重ねが、多くのモノを見抜く力を養うものであり、それが経験というものなのだ。
これは、単車に限らない。チャリンコでも同じだ。何処に痛みも感じない乗り方、楽勝の高回転ペダリング、、、、色々あるけど、基本は、同じ考え方が通用する。自分のモデルを創る事。自分のモデルだけを自分で検証する。モデル作りは自由だが、検証に際しては、道理に適った理屈が必要。そういう意味で、子供やバカには出来ない世界があるのは事実。理屈や知識無しに答えを出せる人も稀に存在するが、それは極一握りの天才である。多くの一般人には、感性だけで答えは出せない。まぁ、感性だけで答えが出せる人っていうのは、ジャンルを問わず誰にも真似できない特技を持っているが、何の取り柄もない奴には、感性なんぞ無い訳であり、自分を含めた凡人の多くに必要なのは、やはり、細分化して考えた時に正誤を判定するだけの知識や論理だ。
何かを進める時、大事なのは、テーマを細分して、その正誤判定を行うに必要な知識だ。そういう考え方が、単車の操作等々に役立つのである。
持論だが、義務教育を始めとする教育っていうのは、生活における様々なイベントを処理する時の方法論を学ぶためにある。その実践の場は、仕事に限らず、趣味や遊びにも言えるのである。
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コメント
そうですね、天性の才能を持たざるモノは、知識を詰め込むしかないのは同意ですね。
ただ、公式を暗記するのは知識を詰め込む事とは違うと思います。知識とは、体系的に整理されたモノであり、断片的な無分別なモノとは違うように思います。
体系的な整理とは、既知のモノを知り、そのモノの生い立ちを知り、進化の道筋を知り、モノの見方を学び、未知を追い求める能力に結び付ける事が出来る手順を作り上げる事だと思います。
単なる暗記に終始するバカは、誰かの言葉が無いと動けません。一人では何も判断できない奴には存在価値は無いと思います。
よく、説明すると解っていますと答える人が居ますが、着眼すべき点を説明して納得する事は、着眼すべきを見抜くレベルとは違います。聞いて解ったような顔をする連中は、殆ど解っていないと思いますね。解ったような顔をした連中の頭には、情報が体系的に整理されていないと考えています。
投稿: 壱源 | 2009年12月 4日 (金) 10時44分
一握りの天才以外は地道に知識を詰め込むしかない、というのが私の考えです。
受験(勉強)はただの暗記で本当の知識ではない、などと批判する人がいますが、何が本当の知識かも言わずイメージだけで言ってる典型です。
投稿: yama | 2009年12月 4日 (金) 10時30分