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2009年12月11日 (金)

身の程志向へ

 今の生活で続いている趣味というか関心事というのは、パソコン、カメラ、自転車、単車というところだ。パソコンは?っていうと、触った事があるのは1980年代後半からだが、所有っていうとPC-9821時代から、カメラは?っていうとデジカメが中心だけど2000年代初頭から、自転車といっても今的なスポーツサイクルとしての付き合い方は小学5年生の頃から、単車への憧れは小学生から、、、

 始まりの時期はバラバラだけど、取り敢えずそんな感じ。それらのモノに関心が向く切っ掛けは?というと、多くの人と同様に、友人の影響だったり、時代の流行だったり、最初は好きでもないけど生活上での必要に迫られたり、、、という感じだ。
 そういう段階で、モノを得る、買う、選ぶという段階では、どうか?というと、多くの人と同じように、色々目に入る情報を見て、その段階の、そのレベルの知識に応じて、アレだコレだと選んでいた。

 そういう選び方では、自分自身が素人故に、多くの人と同じようなチョイスとなっている。そのチョイスは、皆と同じ、日本人的な見方、売れ筋方向、人気のあるチョイスだ。勿論、その時点では、素人なりに考えたつもり、アレ出来る、コレ出来る、、、、そんな感じだ。

 パソコンなら、その時代での最速志向、高機能志向、アレ欲しい、コレ欲しいという方向だったし、デジカメでも、高倍率、色んなマニュアル機能、音声付き動画撮影機能、、、、という高機能方向。単車ならどうよ?っていうと、カタログ馬力が一馬力でも上とか、最速志向、人気志向で小学5年生では火の玉Z2にインパクトを受けて、それ系、Z750four、Z750FXを目指し、現実としてはZ400FXという風なマルチエンジンを選んでいた。そんな感じである。それらのチョイスは、その時点での自分の考えで自分で考えて選んだつもりだったのは確かだ。方向性としては、評判が良いとか、雑誌で良く書かれているとか、カタログスペックが素晴らしい、機能が盛り沢山という選び方だった。

 しかし、現実に、その世界で長く過ごしていると、そういうモノから違うモノに関心が移っている。勿論、そういうモノも否定しない。寧ろ、そういう素晴らしい機能が全部使いこなせたらどれ程に素晴らしいか?なんて考える事が多い。しかし、素晴らしい機能が理解出来ず、使いこなせずに、有り難みも感じないのだ。
 となると、判らないモノは必要ないという方向になる。逆に言えば、自分で判る部分のみに拘りを持つという事。勿論、拘りというのは具体像に対する拘りではなく、フィロソフィーでの拘りだ。考え方の指針みたいなモノ。自分の考え方の指針に従って、こういう用途でこういう方向性だったら、どのように遊べるか?を拘るのである。それ故に、特定の何かに拘る事は無い訳で、選択肢としては、色々なのである。何が嫌いという事はなく、何が好きという事も断言出来ないもの。敢えて言えば、そのジャンルでは、こういう使い方をする。こういう使い方をするならコレが良い。コレで、こういう使い方をするためには、こんな機能が必要だ!とか、、、、そんな感じで、モノを特定しないし、使い方も特定していないのが現実である。或る意味、臨機応変に、選んだもので、とある利用法を考えた時に、コレをどうすれば楽しいか?を考えて付き合う感じなのだ。

 そういう選び方で、求める方向性をシャープに限定する程に、必要な機能を限定して選ぶような感じである。っていうか、不必要な機能を削ぎ落とす、使わない機能は選ばない、理解出来ないモノは理解出来ない限り取り入れないという方向になる。
 気が付くと、そういう選び方で、自分の考え方の指針に拘りを持つ程、言い換えれば、目的がハッキリする程に、機能の要不要が明確になり、自分の満足を満たすモノは、世界に入り始めの時では考えれないようなチョイスになっている。それは、デジカメでもパソコンでも、自転車でも単車でも言える事である。

 TPOに応じて、何がしたいか?を考えた時、その解を求める方向性だけは決まっている。しかし、TPOが違い、望む事が異なれば、得られた解の形は全く異なっているのだ。だから、自転車ならばクロモリのロード、アルミの固定シングル、折り畳み、サス付き折り畳みと形は様々だけど、その形に到る考え方の指針は共通だし、単車でもマグナム80、AR125S、ガンマ200、500、或いはAV50、グース、CX改、SV650Sと選んだ形に一貫性は無いように見えても、それに到る考え方の指針に何の迷いも無いのである。カメラでもパソコンでも一緒なのである。

 結局は、何かしたい事が決まれば、それを自分が体感するのに必要なモノに絞り込んでモノを選ぶというスタイルである。必要なモノが多く見えないという身の程があるから、機能を絞り求めるモノが単純化していくのである。判らない事は判らない。知らない事を知っているような錯覚をすればする程に、自分の理解を高めることは難しい。知っている事が少ないと、良いチョイスは行えないけど、試行錯誤を繰り返す事で、選択の精度が高まっていくのは、何よりも、失敗が肥やしになっているのだ。目に見えるモノ、人の評判、雑誌の評判に迷っていた時代から、自分の身の丈に応じて過ごそうという風に変わったのは、自分なりの経験の蓄積故の事であり、選び方がシャープになるというのは、そういう方向で自分の趣味性が明確になったから。明確になるからターゲットが絞れてくる。明確になるには、経験の蓄積が不可欠。経験の蓄積とは、自分自身の試行錯誤、失敗の積み重ねと、満足体験の積み重ねによるもの。失敗というか、後悔というのは、真剣に考えて、得た感想の落胆が大きい程、身にしみる。身にしみた経験こそ、繰り返しやらかさないという抑止力になる。そういう経験が、選択をシャープにするのだが、その選択は体験が大前提であり、その後悔を避けて人の話で、そんな気になるような馬鹿は、いつまで経っても自分の心の声を聞いて満足を得るような事は無いのだろうなと思うのである。

 大事なのは、身の程であり身の丈だ。そして、程度の低さを諦めるのでなく、判らない事を判りたいという意識を保つ事が知識を増やし、程度を高め、身の丈、身の程を高くする事に繋がる。この意識に終わりは無く、理想に近づくための探求活動というのが、上昇志向に繋がるんだろうと言える。

 自分の身の丈を理解して、それを上昇させる気持ちが大事なのである。自分の考えとしては、身の丈志向、身の程志向というのは、実は、上昇志向ということなのである。上達したい、上昇志向というのは、今を見極めて足らないモノを補う努力が不可欠。それを無くして、願いは叶わない。

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コメント

こんばんは!
判る範囲の買い物!ということで、正直、浮世離れというか、超マニアックというか、貧乏くさい選択ばかりで、ある意味、ゴミ収集状態みたいになっているかな?と我見て思うことあります。
趣味として接する時間が長くなると、最終的に高額なモノに行き、結局は相当の浪費をしているようにも思いますが、その過程で得た思いこそが財産と思っているので、後悔はありません。
いきなり、高額で使えずに、すぐ止めるって接し方が本当の浪費家かな?と思います。金掛けて何も残らないのが一番ダメかな?と思います。

投稿: 壱源 | 2009年12月13日 (日) 00時06分

買い物での後悔はいくつかあり同じことはしないように気をつけるようにしてますが、小さな間違いはいまだにありますね。

鑑定番組でろくに確かめもせずに法外な値段の骨董を買ったり、たいして思い入れも無いのにナンパ目的?で高級車を買う若者(今もいるのか?)を見ると、こういうのが身内にいなくて良かったと思います。

投稿: yama | 2009年12月12日 (土) 23時01分

最初は誰でもモノが凄い世界を見せてくれると思いますね、、、
自分もデジカメ一台目は殆ど使わなかったけ光学10倍、マニュアル撮影機能盛りだくさんな機種でしたけど、、、、結局、何でも居るモノしか、使えるモノしか興味が無くなりましたけど、、

背伸びとか、見栄は大事な事が気付かなくなったり、出来なくなったりするのに気付くには誰しも失敗談が必要ですよね。

投稿: 壱源 | 2009年12月11日 (金) 23時35分

自分を実際より良く見せたい、と思いますが、普通はそれが見えてしまうとより格好悪いのでやっぱりやめておこうと思うのでは?

私も身の丈にあった言動行動を心がけたいものだと思います。

投稿: yama | 2009年12月11日 (金) 22時23分

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