記憶の節約
色んな事を同時に考える。すると、ふと忘れてしまう事も少なくない。しかし、とある事を考えて、その考えの根底、経験となるモノを遠い記憶を遡って考える。そうすると、その記憶の対象となる事実迄、頭の中はタイムスリップする。そして、そのモノをその瞬間にどう考えたか?その時に、残した痕跡が今現在、何処にあるか?その時、周りの反応はどうだったか?という記憶というか、その時の状況が映像的に蘇る。蘇った映像を頼りに、そのモノを探し出したり、その時の考え方を記憶から掘り出したりする事が多い。それで、思うのは、どうにか記憶は保たれているなぁ、、、ってこと。
勿論、上司、部下、友人、同級生・・・と話して、その内容、自分がどういったか?相手がどういう反応をしたか?そういう部分もほぼ100%忘れていない。
勿論、記憶容量には限界がある筈だから、覚える端から忘れている部分もあるのだろうが、記憶の形としては、全てを覚えているというよりも、とある切っ掛けから忘れていた記憶というか、その時の自分の気持になって順繰りに出てくるような感じだ。
果たして、これは記憶なのか?記憶としては一つであり、そこから連想的に想像されるような感じである。自分の記憶をシャープに蘇らせる事が出来る時期を遡って考えると、面白い事に、自己分析して自分の人格が形成されて以降なのだが、仮にそうならば、人格形成、性格形成でそれが確立されているならば、覚えていなくても、その時の状況を脳内に作り出す事で、今考えた事と昔考えた事が同じために、覚えていなくても覚えているような錯覚をするのかな?と考えたりもする。
そう言えば、暗記というのも字面を暗記するのは苦手であり、映像的な暗記が得意。数学や理科、工学系の科目も公式、法則は正直覚えていないけど、その公式の元となるモデルは記憶しており、そのモデルを展開して公式や法則を誘導することで字面を表す事の方が多い。
趣味の事、遊びの事、或いは、開発等々の事に関しても、体系的に分けられた科目毎の事実を同時スタートで書き表す何て事をしたらダメダメだろうと思う。でも、趣味でも、遊びでも、或いは、研究、事故処理、業務改善等々で遭遇する事態は、正直、どれも同じ形に見えるし、どの問題も過去に似たモデルで対応したような印象なのだ。それ故に、原点的に考えると、ジャンル毎に得手不得手という感覚は皆無であり、どれも同じ様な印象で、どっかで見た事があるような感覚を得るのである。
そう考えると、記憶している絶対量は実は極めて少ない過ごし方をしてきたのかな?と思える今日この頃である。記憶の量を競うのでなく、記憶を効率的に行う事で、最小の記憶で最大の再生が出来るのがベストであり、そのためには、物事の様の決まりというか、法則性というか、そういうモノを感じる感覚が最も大事なのかな?と思う事が多い。正直、降りかかる事態を問題と捉える事は稀で、なんかの改造とか、どういう風にしたいとか、そういう気持ちが芽生えたら、次の瞬間には答えが見える事が多い。これも、記憶の広さは少ないけれど、考える対象を他の事例に当て嵌めて考える故にも見える。理解しているレベルは低いかも知れないが、記憶を節約しているのは事実であり、記憶の余白は、同世代より遙かに広い領域が残っているような気がする。
| 固定リンク
« 血便・血尿 | トップページ | 日々の過ごし方の訳 »
コメント