理科支援員?
先日、事業仕分けのニュースを見て単純に驚いた事、、、、、
それは、『理科支援員』の話、、、、、正直、何だそれ?って感想。理科が教えられない奴に教員なんぞを、させる方がおかしな話。そんな制度は不要だろ?っていうのが偽らざる感想だ。少々感心があって調べてみると、理科支援員っていうのは、ここに紹介してある。
http://gakushu.tokyo.jst.go.jp/scot/tokubetsukoshi/index.php
これだ。昔はこういう制度は無かったけど、正直、無くても問題無かったように思うのだが、、、、
要は、理科離れを危惧した政府が、理科への関心を高めさせるために観察、実験活動を充実させるために生まれたモノだそうだ。
確かに、理科は大事である。しかし、観察活動、実験活動を充実させるために、支援員的な活動が必要か?というと賛否があるのだろう。
別に、理科支援に限らず、企業における指導教育、学校教育に到るまで思うのは、定型的な枠に嵌め込んでトレース能力を高める事ばかりという印象が強い。全ての手順、標準的な視点、見方を教えて、それに順応させる事、トレースさせる事に主眼を老いているようにしか見えないのである。それは、マニュアル化、手順化という企業の活動指針にも通ずるように見えるが、今の考え方は、知識、知識の運用方法の正攻法に如何に則った見方が出来るような人間を作るか?という風にしか見えないのである。
少なくとも、理科支援員でもテーマが最初にありきで、観察、実験を紹介してってパターンには、ものを見た時に感じる独自性の芽を奪っているように見えるのは気のせいだろうか?
実は、先日から企業活動において、部下、関連会社の共同研究員に対しての話し方を変えているのだが、その理由は、この理科支援員制度に対する自分の違和感と相通ずる部分がある。
例えば、何かの修理、問題解決、開発作業が在ったとする。そのような作業には理由がある。理由というか問題の対処を試みるには、問題を切り分けて、対応が問題にどう作用するか?対応が期待に応えるか?を確認して物事を進めていく。その積み重ねというか合わさったものを具体的な行動で確認し、結果を導いていくのだが、当然、行動の中には、要点が複数存在している。要点自体は簡単だが、それが何処に効いているか?を意識しないと何も見えない。
今までは、その要点の一字一句を説明していたが、その度、殆どの奴が、『わかってます!』『考えてます!』という解答に終始しており、その割りには何にも判っていない事に対して、フラストレーションを感じていたのだ。話す度、説明する度に、判っていると言われては、いざ任せて行わせると何も判っていないという繰り返しは非常に疲れるのであうr。
そこで、大きな流れの中の小さな要素全ての説明をして判ってますと言われるくらいなら、大きな流れの大きな指示のみを先に与え、そこで何をするか?何処を見るか?を観察してやろうって方針に変更したのだ。そこで、何処を見ているか?を尋ねて、小さな要素が本当に見抜けているか?を調べているのだが、どうやら99%以上は判っていないようなのだ。
つまり、指示を与えたら、指示自体は簡単であり当人から見れば『判っている』つもりなんだろうが、本当は大きな流れから小さな指示を生み出せるかどうかこそが重要で、出された指示への適応よりも、指示自体を思い付くか?こそが判っているか否かの判定基準であり、当人に判っていない事を知らしめる事こそが教育では?と思うのである。人の説明を聞いて受け入れられた状態を判ったと思わせる事自体が過ちであり、無から問題を見抜いてこそ判ったという事の筈だ。
話が判りにくいけど、見方や方法を与えて、どう思うか?でなく、どんな見方や方法を生み出すか?こそが大事であり、理科の本質はそこにあると考えれば、やはり、理科支援制度でのやり方は、マニュアルに単に従うだけの人間しか作り得ないように感じるのである。
支援員制度は否定しないが、今の支援員の支援の仕方はチョット違うような気がする。支援員というよりも、教育現場における教師が、定型に当て嵌めるでなく、見方や着眼能力を身に付けさせる方向で教育に接する方が先のような気がする。
そもそも、マニュアルに従う、手順を守る、公式に当て嵌める、、、というのは、誰かが決めた事に従うだけであり、自分で何か新しい事をやるっていうのとは別問題。前例があれば出来るけど、前例が無いモノは出来ないというのは、果たして求められているのだろうか?
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コメント
そうですね、理系は今一人気ないですね。
でも、理系も文系もホントは関係無いかな?とも思います。
理系でも文系でも、基本は過去の知見を知る。そして、知見や知識が如何に進化してきたかを見て、その進化の理由やパターンを問題解決の解法を学ぶ手本にして、将来の問題解決力を身に付け、生まれたからには新しい知見を生み出す事という点で見れば、理系も文系も一緒かなと思います。
テレビ番組で蘊蓄系というと、暗記しているか否かで優劣をみるようなもので、薄っぺらい博学だと思います。
投稿: 壱源 | 2009年12月 5日 (土) 00時17分
科学立国である日本で理科数学が一般に根付いていないことのひとつに、クイズ番組で漢字歴史など文系の問題はかなりの難問が出題されますが、理系は四則演算、実験器具の名前、科学者の名前(超有名だけ)くらいです。(私立小中学校受験問題などは難問あり)
この前東大理系出身の女性タレントがクイズ番組であまり活躍できない言い訳をしてました。
投稿: yama | 2009年12月 4日 (金) 18時08分
コメント有り難うございます。
そうですね、、、、エリートの自己否定、正しくそうかも知れません。
理科に限らず、全教科で言えるのは、過去を学び、未知を切り開く事が進歩故に、教育は、未知を切り開く能力を養う事なのにね、、、
投稿: 壱源 | 2009年12月 4日 (金) 07時57分
>>支援員というよりも、教育現場における教師が、定型に当て嵌めるでなく、見方や着眼能力を身に付けさせる方向で教育に接する方が先のような気がする。
いや、それをすると文部省のお役人さん達はエリートとしての自己を否定する方向になると思われますから(”マニュアルに従う、手順を守る、公式に当て嵌める”ことが得意なエリートさん、、)、教育基本法(これが違和感の根源?)の御旗の元に”あがきながら”野壺か底なし沼に沈んでいくような気がします。
本当の教育は自分の言葉で理解する”独自性”を育てることなのにね。偉い人が言ったら自分の言葉で分からないのにそのまま暗記させてしまう教育は違和感だらけですね。
投稿: 通りすがり | 2009年12月 4日 (金) 01時22分