速くなりたい人の気持ちって?
チョット面白い話を聞いた。単車や自転車が好きになった人の熱い話だけど、色々と高級なパーツやコンポ、ブランド、機能に関心を持ったり、色んな所で溢れているトレーニングネタ、テクニックネタに関心を持ったりする理由は、何でも、速くなりたいからだそうだ。
『速くなりたい、、、、』、、、、まぁ、言葉的に、気持ち的、心情的に判らないではない。
その気持ちが強い(?)から、ネットや雑誌の情報に敏感だったり、他人の話や行いに関心が強いのだろう。
そして、速くなりたい!って気持ちの根底は何処にある?何にある?って聞いてみると、何やら、最終的には他人との比較のようである。
なる程、速くなりたいというのは、速くないという思いがあるからで、何故思うか?っていうと、他人に挑んだ結果、挑まれた結果で感じる事のようだ。
思えば、考え得るトライを行って、カスタムしたりトレーニングしたり、蘊蓄を貯めたりして結果どうなった?を他人で測っている訳だ。そして、速くなりたいという言葉の裏には、何故だか、速くないと言う事を自覚しているみたいなのである。
これから、何となく思ったのは、速くなりたいって人は、心の奥底で速くない事を自覚している人。そして、この世界の価値観は、尺度は不明だが、『速さ』に求めているようだ。その定量的なターゲットが定まらない状態で、とにかく『速く!』を求めているみたいである。そして、そのための投資ということで、ネットで拾ってきた蘊蓄情報を試したり、誰彼の行っているトレーニングをトレースしたり、或いは、メーカーの謳う宣伝文句に乗ってモノを仕入れたりして過ごしているようだ。それで、何かの結果が得られるかも知れない、、、、そんな願いを持っているようだ。
言ってみれば、彼らから見て速そうな人がやっていそうなトレーニングとか、テクニックとか、機材を手に入れたら、それに近付けるかも知れない、、、、そんな気持ちが行動の原動力となっているようである。それを確かめる?ために、遭遇したりすると、挑発モードになってしまう、、、、そんな感じのようだ。
まぁ、全てがそんな人では無いとは思うけど、こういう人も少なからず存在するようだ。
そもそも、速いとか遅いとか、、、、そういう尺度っていうのは、あくまでも相対的な比較の話であり、そういう事を目標にして楽しいのだろうか?というのが素直な気持ち。
私のこのブログでは老いへの挑戦というか、そんなフレーズを掲げているのは事実だけど、別に、昔より速く!なんて考えてはいない。しかし、老いへの挑戦=昔より速く!って捉える人も居るかな?とも思う。老いへの挑戦っていうのは、老いるという宿命のなかでも、同じ事を続けようと言う意志を持つ事であり、別に昔と同じを求めているのとは違うのである。
趣味にしても続けて楽しい!っていうのは、自分がテーマを掲げて、それがクリア出来るか?で一喜一憂しているのである。つまり、目標が実現出来たかどうか?が判定出来るから次に行けるのである。速いか?遅いか?っていうのは、判定しようが無い。
判定出来る事というのは、具体的に現状出来ない事があって、それを出来る事を目的に様々なトライを行う。そのトライは、出来ない理由を掲げ、それを解決するという事だけど、実践出来たかどうか?で判断するモノ。つまり、速いとか遅いという比較級的な話とは違うのである。
だから、自分を速いとも遅いとも思っていないし、自分の望む結果が得られているから、それが人と較べてどうであれ満足していると言う事なのだ。自分が、コレくらいが出来れば嬉しい!と思ってトライして出来たら嬉しい、作れたら嬉しいという単純な世界なのだ。今、何かを行ったとして得られた結果に対しては、どんな結果であっても満足している。何故ならば、その結果は自分を表した結果だからであり、行動に際しては思い通りに行っているという自負があるから、どんな結果でも受け入れるのである。
速いとか遅いで一喜一憂する人は、結果が思い通りでないと受け入れない人も居る。結果は行動の実態そのものであり、実態に伴わぬ結果を得ても何も嬉しくない筈だが、結果だけを求める人っていうのは、行動の実態との相関性を無視した人であろう。
別の世界でいうと、テストの点数のみを目指し、手法に拘らない人に多いだろう。点数を確保するために、公式頼り、暗記頼み、過去問対策、下手すればカンニング、解答写しと手段を問わない。テストの点数っていうのは、自分の取り組みを数値化したものであり、その点数数値は理解度を把握するためのもの。つまり、目的は点数でなく理解度なのだ。理解度0で点数が100点っていうのは、自分のレベルを見る機会を逸しているのだが、その辺が気付かないんだろう。
相対的なモノを求めていても、楽しくないのでは?っていうのが自分の意見だ。自分で行った結果が得られるかどうか?それが明確に見られる事でないと、取り組みに対する結果が見えないし満足感も得られない。そういう考えは、別に、自転車、単車に限らず、筋トレ、水泳、或いは、研究、特許作成、、、、全てに共通している考えだ。
自分が満足するには、満足出来たかどうかが判定出来る目標が必要だが、それが目標となるのは、現時点で出来ないから。出来ない事が出来れば嬉しいのは万人に共通な事。出来ない事が何で、出来ない理由が何か?が判れば、出来るようになる取り組みも自ずと見えてくるもの。
抽象的、漠然に希望を言う人は、満足するための判定基準も無ければ、満足するための具体的な手法も見えない。それでは、一生答えには行き着かない。そんなもんである。
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コメント
コメント有り難う御座います。
速くなりたい!って気持ち、乗り物乗りなら誰にでも有る願望だと思います。
速度計に40km/hを表示させたい!って具体性がある分には全然OKだと思います。
満足できる状態が何か?が無いような、漠然とした事を目標とするのが難しいんだと思います。
身近にいる速くなりたい君は、正確には、速いって言われたい君なんだと思います。人から良く、凄く見られたい、格好を付けたいんだろうという事ですね。
となると、なかなか難しいですね、、、判断基準が自分に無い訳ですから、、、、。
投稿: 壱源 | 2010年1月20日 (水) 23時48分
自分にも他人にも害の無い事で競うなら良いでしょうね。
自分の単速シティサイクルで、「速くなりたい」という気持ちも少し有りますが、とりあえず瞬間40Km/h出して見たいです。32Km/hまでは表示できましたがそれにしても足が追いつかない。
投稿: クマ | 2010年1月20日 (水) 23時43分
こんばんは!コメント有難うございます。
点数狙いの人っていうのは、いい格好したい人、見た目を気にする人、体裁を整えたい人、見栄を張る人とも言いかえれます。表面主義なんでしょうか?
やはり、日本社会が表面だけで序列化する社会故なんでしょうね。
多くの人は、それによって真の満足を得ているとは思いませんが、誰もがそういう考えだから、みんな一緒だから、、、自分の考えが普通だから、、、、そんな考えで本心を黙殺しているんだと思います。
投稿: 壱源 | 2010年1月15日 (金) 02時05分
又コメント書きたくなりました。全くその通り、、「結果だけを求める人っていうのは」本当に多いんですね(どの位多い?)。相対的に優秀(というレッテルを貼るための”試験”)で日本の”エリート”さんたちが再生産されていく、、ここに日本社会の不幸がありますね。この発想が骨身にまで染み付いている?ほんとに小さなロードバイクで速い、云々、まで相対的に序列化している、、、他人と比較して自慢したい=自分は優秀だ=結果、、、
投稿: 通りすがり | 2010年1月15日 (金) 01時08分