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2010年1月21日 (木)

道具として、機材として、武器として、、、、

 学生時代には単車に凝っていた。一番高額な買い物は?っていうと、YAMAHAのTZ250だ。そう、市販レーサーである。市販車ではなくサーキットしか走ることしかできないアレである。中古でも60万円以上、新車では150万円以上の世界のオモチャである。
 これは基本的な素の状態を、コースに合わせて、乗り手に合わせてフィッティングして使うモノである。売られている状態のままで使う人っていうのは、、、、、実は殆ど居ない世界である。
 一方で、市販車の世界、、、、メーカーのテストで万人が乗れるように調整されて世に出るのである。この状態で、誰でも何処でもソコソコに使えるものである。これが基本であるのだが、市販車ベースの競技の世界では、市販車のままでは当然使えない。不要なモノを外すだけでも足らない。やはり、乗り手、癖、場所に応じたフィッティングが必要なのである。このフィッティングの必要性は競技?っていうと、実は、競技に使うという事に限らない。長きに渡る経験と理解によって乗り手は乗りやすいように万人向けから改変していくのが普通である。それは万人向けから個人向けへの変更であるのだ。

 どちらが正しいか?万人向けと個人向けを較べてみると、、、、、王道的、モノの立場から考えると、間違い無く、万人向けが正しいのである。万人向けというのは道具としてモノを見た時に、道具の機能を高度なバランスで保つような公約数的な解答であり、それに勝るモノは無いのである。
 何を以て正しいか?というと、道具であるからには、求める機能因子が多数存在する。その因子数を軸に取ったスターチャートに書き込むチャートの面積が大きければ正しいという事で判定する事も可能だ。

 しかし、万人向け、機械の都合での正しさっていうのは、個人が扱って最大の効果を発揮するとは限らないのである。それは、個人が機械の全てを発揮出来るような力をもっているとも限らないし、個人の得手、不得手もある。ある機能を犠牲にしてでも欲しい機能もある。それは、使い手、個人の目線で見たもので、道具をどう使うか?次第であり、それは個人にとっての都合であり、或る意味、汎用性を失い、普遍性を失い、機械の立場から見ると総合的な機能は縮小している場合も少なくないである。それでも、使い手が、多くを犠牲にしてでも得たい何かを武器として捉えれば、個人によるフィッティングは機械として万人から見た見え方としては間違いであっても、個人にとっては正解なのである。

 そう、機械を見つめると、純粋の機械の立場から見た道具としての部分と、使う側の人間の立場から見た部分に分けられるのである。前者が道具的な部分、後者が武器的な部分である。それは、全てのジャンルのモノに当て嵌まるのである。

 結論を言う前に、面白い話がある。

 例えば、ロードレーサーの乗り方、セッティングの蘊蓄について、、、、、有名な元選手で、例えば今中選手がいらっしゃる。彼は彼なりの乗り方、セッティングに関する意見を情報と発信している。そして、多くの人がその情報に接している。
 その中で、今中選手の乗り方に否定的な意見を述べる方も少なくない。

 それはそれで良いのだけど、一番の問題は、盲目的に乗り方や考え方を模倣する素人ユーザーの考え方が悪いと言う事の筈だけど、それを伝えずに乗り方マニュアルが悪いという表現があったとすれば、それは変な話である。

 何が言いたいか?というと、機械には道具的な要素、武器的な要素があり、前者は機械の都合、後者は乗り手の都合であり、競技具としては乗り手の都合で生み出したアドバンテージこそが大事であり、或るレベルに達した人の意見というのは、その人の素地やセンスを活かすという点において特化した解答であり、模倣する連中が素地として選手と同じモノを持っていなかったとすれば、同じ方法は基本的には通用しないのは当然だからである。

 そう、モノには道具的な側面、武器的な側面がある。道具的な側面では、機械の持つ本来の役割に沿った部分である。これは機械の原則論に従った部分だ。
 そして、武器的な側面では、機械の持つ機能の何を重視して何を捨てるか?という取捨選択で得られる特異な形が現れる。それは、機械を扱う人の思想に支配される。使う側がどういう戦略を取るか?で、機能の取捨選択の形は都度変化する。乗り方、組み方、選び方、全てに言えるものである。これは個人の思想に沿った正解であり、他人に取っては正解とは為り得ない答えである。
 例えば、ロードレーサーという用途が特化した乗り物がある。これは、自転車という漕いだら進む機械の道具的な部分と、それを使った結果で競うために優位性を得る武器的な部分がある。道具的な部分の考え方は、ロードレーサーという形に縛られないシンプルな考え方が通用する部分だ。
 これを武器とするには、道具的な部分の何処を重視するか、引き出すかを個人の資質に合わせて重要度を分配しなければ得られないのである。

 ロードレーサーで速さ云々を語る前に大事なのは、自転車というシンプルな部分で、どうあるべきか?という道具的な部分の理解が一番大切であり、そこから何を育て、何を捨てるか?を自分の資質に合わせて取捨選択する事が、武器としての自転車を作る第一歩なのである。
 いきなりロードレーサーを進めたり、ロードレーサーの乗り方、速く走る方法という事を言いながら、自転車の基本的な部分を混同して伝えたりしているのは、正直、理解不可能である。

 未だ、単車の世界、レプリカブームの時代では、ショップもベテランも素人にハードなモデルを薦める風潮は無かった。初心者に350cc以上の2ストロークとか、、、そういう推薦はナンセンスとしていた。
 しかし、自転車の世界、ロードバイクブームの現代は、ショップもベテランもいきなりハイエンドを進める風潮が蔓延している。そういう奨めは一般化している点が、当時とは大きく違っている。

 自分が自転車店で勤務している時、少なくとも、スポーツサイクルに憧れる人に、いきなりロードレーサーを奨めた覚えは無いのだけど、今は時代が変わっている。今は、いきなり奨めて、いきなり乗り方指南するのが普通のようだ。そういう意味で違和感を常に感じている。初心者がロードレーサーで速く走る基本、、、、、こういう文言は未だに理解出来ない。

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コメント

レプリカ時代には、イメージレプリカと呼ばれるモノとリアルレプリカと呼ばれるモノが在りました。一方は、雰囲気とデザインがそれ系で実は扱いやすいモノ。一方は極端には乾式クラッチ装備モデルをラインナップさせる程に先鋭化したモノ。しかし、人気は先鋭化したモノに偏っていきました。
自転車もそんな感じかな?と思います。エントリーモデルを軽視して使った事無いのに105以上とかの講釈で機材系モデルが人気のようです。
モノを揃えても扱えるとは限らないのですが、幻想するのが普通のようです。その現実に気付くには誰しも少々時間を要するものだと思います。

投稿: 壱源 | 2010年1月21日 (木) 23時07分

バイクに乗って早い時期に、燃費の良さとか乗せられる荷物の量、荒れた路面での扱いの良さへ注目したので、レーサーレプリカに乗りそこないました。買ってきたままのレーサーレプリカ車(ガンマ250とRG250)とエコラン競争しましたが、あまり変らなかったです。旧車で体重があった私のRGの方が若干悪かったです。
レーサータイプの自転車に乗れたら何だか速く走れそうな幻想はあります。変速機が付いていれば、坂を登るのも楽そうな気がします。坂に関しては仕事量が変らない筈なので楽ではないかも。
写真を長くやっていますが、ドイツ製カメラってどうなのか、初めて買いました。70年以上前のセミ判イコンタ。ブローニーフィルムを使う蛇腹付き。距離計無し、露出計無し。デジタル時代なので数千円。でもちゃんと写ります。フラッシュの接点がありませんが、三脚へ付けてスローシャッターにすれば、夜景も写ります。大事に使われた個体だったのでしょう。しかし写真の腕はカメラによって良くならない事を再認識させてくれました。

投稿: クマ | 2010年1月21日 (木) 22時20分

かもしれませんね、、、、
でも、雑誌の特集で、ヒルクライムが云々とか、速くなるとか、、、、そういうのが組まれると沢山売れたり、雑誌の受け売りだけで、最低でも105で!っていうのがまかり通っているのを見ると、あながち、そうでもないと思います。

因みに、レーサーレプリカブームでは、姿勢がキツイとか乗りにくいからユーザーが離れたなんて軽はずみな意見でブーム衰退を説明する人がいるけど、実際、それに相応しい乗り方をすれば疲れる事なんてありません。実際、B/S付きレプリカで1000kmツーリングで疲れた記憶なんてありません。使い方が判らない人が結滞な乗り方で勝手に疲れたって言っていたのが現実で、免許取ってレプリカに乗ろう!、そして、乗りやすいレプリカ、リーズナブルなレプリカで、振り向けばレプリカでブームが去ったのが本当だと思います。

投稿: 壱源 | 2010年1月21日 (木) 20時28分

2サイクルレーサーみたいな扱いがたいものを買う素人はそういないと思いますが、自転車はどんなにプロ向けでも所詮人力で素人でも普通に乗れるから、買う人が多いのでしょう。

それに乗れば速く走れるとは実際は思ってなく、金満時計やドイツ製カメラのように主に所有欲を満たすだけの物、と本当は思っているのでは?

投稿: yama | 2010年1月21日 (木) 18時40分

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