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2010年1月24日 (日)

意見の対象は、他人の意見?事実?

 評判とか、インプレッションを参考にするっていうのは、誰にでも少なからず在る事だろう。しかし、そのインプレッションとか感想に対する感想を行うことばかりしていくっていうのは、どうなんだろうか?
 判りやすいモノ、そうでないモノ、モノは色々だし、モノに対する見方は、これまた見る人次第だ。見る人の嗜好、経歴、熟練度、理解度、、、、、ありとあらゆるモノで影響されるもの。感想っていうのは、感じ手の好みに合わせた優先順位みたいなものであり、その優先順位の判断基準が何か?判断するに見合った者の視点か?によって、それは定まらないモノである。

 そういう訳であり、自分の場合は、モノや知識、用法等々に対して、自分のレベルで理解出来るモノ、自分の目的への適応度で要、不要の判断を行って優先順位を付けている。それ故に、その意見というのは、誰に対してもの万能解では無いし、汎用的な模範解答から見ると、寧ろ間違っていると言える場合も少なくないと考えている。

 っていうのは、考え方で基本的な部分、基礎的な部分っていうのは、モノや論理の都合で決まっており、それは普遍的に正しい、正しくないが決まるモノだけど、その基本の上に成り立つ使い手側が支配する部分っていうのは、モノの都合でなく使い手の都合で決まるものである。そこでは普遍性を失いながらも、特定の部分で特化させるという方法論も生まれるけど、それは、その事を承知した上で成り立つモノ。普遍的には正しくないけど、そいういう方法もありなのだ。
 多くの評判とかインプレッションというのは、基本的な部分の評価のウエイトよりも、寧ろ、使い手側の都合で支配される部分への評価である場合が多く、そういう意味では、そこでの感想や評判には普遍性が無いものである。

 そんな評判や感想、他人の意見に感想を持つ(評論する)っていうのは、言ってみれば、モノへの評価でなく、感想への評価だし、更に言えば、評論する相手への信頼度の評価のようなモノに変質してしまうのである。結果的に、何を見ているのか?というと、一番大事な部分、そう、モノの具体的な部分の内、自分で理解出来る範囲で感じる情報が何か?というのが全く見えない状態に陥るのである。

 そういう感想をして、それを自分の意見というのは甚だ変な話だと思うのである。

 誰彼がこう言ったから、俺もこうする。雑誌の評判が良いからコレにする。誰彼の意見に、誰が否定したから俺も否定する、、、、、そういうのは、何だか見ていて気分が悪いのである。
 大事なのは、そこにある事実、モノを見て、自分の知識や経験で判断出来るモノを見つめて判断を下す事。そこで得た結果を経験として還元していく事。当然、失敗や浪費を招くだろうけど、そうやって得た情報こそ重要だと言える。

 最近は、他人の持ち物を載せて貰って決めるとか、モノを使ってから決めるとか、人に聞いてから決めるとか、色んな情報誌を眺めて決めるとか、行為によるリスクを減らしたいがために、レベルの違う世界の人の感想に惑わされるって例をよく見るけど、それって、実体験を積み重ねる機会を無意識の内に失っているように見えるのである。

 昨日アップした記事から数えると同じ内容とも言える小言三連発になってしまったなぁ、、、、。でも、どの年齢からでも良いから、自分の状態を冷静に見つめて、体裁に捕らわれすぎず、、、、そういうのが良いと思っての事。

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