老いと若さ
ここ最近の筋トレで得た筋肉、若い筋肉についての記事を纏めていて思い直した事。
それは、全ての事について言えることだが、『若さ』と『老い』について言える事は只一つで、若さとは、可能性の広がりの事を言い、老いとは、可能性から選び育んで得た能力の事、即ち個性の事を言うのかな?という思いだ。
可能性という面では、どんな方面にも育つ汎用性、未来を持ってはいるけど、それは入口に立てるというだけの話であり、取っ掛かりの広さの事であり、この選択肢の中で何を選ぶか?何を獲得するかで、成長に併せて個性というか性格というか、そういうモノが実体化するという考え方である。
選んだ方向性に生き方を定める事で、それに必要なモノはドンドンと研ぎ澄まされていき、それが熟練という言葉で表される。そして、選んだ能力への対応の純度を高める程に、それ以外の汎用性というか、選ばれなかった可能性は淘汰されて消滅していく。
この適応の深さというのが成長であるという考え方が一番理解しやすいようだ。
そうすると、『老い』とか『若さ』が、可能性と個性の比率によって決められると考えれば判りやすい。
個性として現れていないけど可能性が無限というのが生まれたばかりの世代であり、可能性は無いかも知れないが対極が年の功という表現で敬われる世代だろう。
この、可能性と個性は具体的に何に表されるか?というと、筋肉の多様性と適応性、思考の広さと深さという違いに表される。
つまり、可能性という部分では、深さは無いけど広さがある。個性という部分では広さは無いけど深さがあると言う事。この神経系の広さから深さへの転換というのが、個体の誕生から消滅に到る過程で辿るプロセスということ。
この可能性を個性に実体化するために必要なのが、TPOではないが、必要な時期における、適切な刺激と言う事である。これを経験する事で、個体が完成していくのであろう。
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