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2010年2月13日 (土)

自分なりの理解

 乗り方とか、モノの選び方。これは人それぞれである。何が正解で、何が正論か?っていうのは、正に人次第なのである。或る意味、人にとっての正解は、その人が選んだ方法というのが間違い無いのである。選び方が何に基づくか?それは、誰彼が言うようなモノでもないのである。

 それ故に、自分が選んだ自分の方法っていうのは、自分にとっての正解だと自信が持てるのである。自分にとっての正論は、自分にしか試さないし、自分にしか使わないというか、そういうものである。自分の意志による自分の行動の結果の責任は、自分が取れば良いのである。
 人に指導するとか、指南するとか、、、、、そういうのは、責任も取れないし、それを適当に伝聞されるのも不愉快故に、原則、行わないのである。

 特に、自転車っていうのは、動力変換機械としての側面と、その上で個人向けの道具としての側面の二つの側面があるというのは以前も記事にしたとおりだけど、特に、後者の部分の側面に関しては、間違っても他人には押し付ける事は出来ない。当然、前者の機械として捉えた時の側面に関しても、何処から何処までが、どんな理屈に基づけば、、、、なんて事も言う事は出来ない。言えるのは、やっぱりガイドラインに尽きるのである。ガイドラインを矛盾無く行うための具体的な何か?っていうのは、特に、一方通行的には伝える事は難しい。具体的な何かを実践するには、その瞬間における感じ方、意識の持ち方がどうか?をしっかり見極めなければ、同じ文言でも行為が全く異なるって事は凄く多いからだ。

 以前、単車のハイスロについても他人と話しをした事がある。これは、物理的にはワイヤーの巻き取り径を大きくしたモノという事だが。その理解は人によって違う。自分から見て、他人に対して笑ったのは、速くアクセルを全開に出来るから!って事を聞いたからだ。確かに、速くアクセルを開けようと思えば開くかもしれないが、そもそもアクセルの開度とか開け方っていうのは、雑巾を絞るように開けるというものであり、誰も速く開けようとはしない筈。
 自分の理解は、手首の動き最小限で(つまり、握り直し無しで、、、)、必要な体制で必要な開度を得るためという認識。つまり、握り直しが影響するような旋回時における出力調整でメリットを得るためという認識だけど、、、、
 そんな認識の違いを知らずして、パーツの使い方を一方的に話すのは、前提の違いがあれば異なる理解、矛盾した結果になりかねない。

 そんな訳で、一方向的なやりとりで自分なりの理解を公開するっていうのは、基本的には有り得ないのだ。

 自分の場合、モノに接してモノを見て理解しようと努めてきたが、最近は、色んな事をじっくりと小さな要素に分けて考えるようにしている。小さな要素に分けて考えて、この部分は如何に扱うべきか?何を基準に良否を判定するか?そういうモノを浮かび上がらせて理解出来るようになってきた。
 結果、何処から何処までが、何のための理屈?誰のための理屈っていうのが自分なりに分けて考える事が出来るようになったな!って感じ始めている。

 実際、この考え方に従って、単車なり自転車なりに乗ったり、泳いだりして、改めて色んな部分を考えてみると、色んな事を再発見するというか、再認識出来たりする。

 見方次第で、どうにでも変わるんだな!って感じだ。どんな世界でも非常に奥が深い。考える程に奥が見えなくなるし、更に、行うべき事が見えてくる。そうなってくると、そこで得た感覚っていうのは、どの世界においても途中というか道半ばと言う事。そんな中途半端な事を偉そうに他人に言ったりするのは非常に浅はかな行為だと思う。

 まぁ、趣味でも、遊びでも、スポーツでも、仕事でも、学問、研究でもなんでもだが、長続きの秘訣は、そうやって自分の理解が変わる事を楽しむ事だ。それぞれに自分の理解の変化で意識も変化する。その変化は個々が見出すべきものであり、その楽しみを奪うのは、やってはならない事である。最近は特にそういう思いが強い。

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コメント

世の中には、色々な科目、分野、学問があります。傍目には全部違うようにも見えます。
でも、私は全部同じに見える事が少なくありません。
全ては、内容が進化しています。進化の方向性には目的が存在します。今、既知となったものには全て目的や理由が在ります。過去とは問題の解決結果であり、未来とは新しい目的への対応と捉える事が出来ます。
全ては同じ方向性で、未知を既知に変える営みを行うのが人間と言えるでしょう。
どんな分野においても、それに気付き、遭遇するであろう未知への対応力を養うのが教育と言えます。
個性を養うというのは、個々の個性によって未知を既知に変える能力を養うということであり、大事なのは、過去を記憶し、その過去の問題解決の手順をヒントに未知を解決する独創力を養う事です。
そこで必要なのは、過去の歴史を学ぶ事。そして、同じテーマに対する生きた情報を仕入れる事です。それが、教育とコミュニケーションの重要性に繋がると理解しています。

それによって初めて、道理に適った個性が生まれるのでは無いでしょうか?

投稿: 壱源 | 2010年2月14日 (日) 20時52分

>>結局は、行動を理解する。自分で考えると言う事、、

壱源さんに同意です。そして、壱源さんのコメントには更に前進するためのヒントがありますね。

>>1980年から徐々にシフトした教育改革(ゆとり教育)では、本来は詰め込みを排除して個性を引き延ばすという理念が在ったはずですが、

そうですよね。個性を伸ばすということは、自分なりに考える、ということとほぼ同義ですから、各人が自分なりに考えるようになると中には彼のような”気まま”と写るような人間が増えてくることですから、教育界は”個性を伸ばす”ということを中身を考えずに”美辞麗句”として使っていたことが分かります。個性を伸ばすことだけでは教育は完了しませんね。思い出すのは、この間公共放送”追跡!A to Z 「問われる日本人の“言語力”」”の中でオシム監督がサッカーをしていても生活全般でも日本人は対話をしない、、というようなことを言ってたことです。自分なりに考えるようになっても対話を通じて自分の考えを修正してゆかないと正解には達しないという気がします。オシム監督は欧米でやってきたように対話を通じて日本のサッカーをより一段と高みに引き上げたかったんでしょうね。ところが、日本のサッカー選手は自分なりに考える、自分なりに理解する、という段階に無かった。だから日本に来る前から実践してきた対話を通じたコーチングが出来なかったんでしょうね。日本では模範解答を丸暗記しようとする人間ばかりですからね。

投稿: 通りすがり | 2010年2月14日 (日) 18時58分

こんにちは!
コメント有り難う御座います。
日本人特有なんでしょうかね?ブームに乗りやすい、煽動に乗りやすい、、、、、昔なら村八分なんて言葉が在りましたけど、今の社会におけるイジメなんかも似たような国民性が伺えるような気もします。
1980年から徐々にシフトした教育改革(ゆとり教育)では、本来は詰め込みを排除して個性を引き延ばすという理念が在ったはずですが、手抜き教育、ワガママ教育、身勝手教育に置き換わったようにも思います。詰め込まれた知識や道徳も無く、個性や主義主張も無い。そんな感じです。
ハーフパイプの国母選手の態度、言動を容認する筈もありませんが、その常識さえ気付かせない教育であったり、そういう人間性を見抜けなかった組織だったり、それを承知で指導さえ出来なかった協会にも同じ様な責任があると思います。

話は変わりますが、以前、勤務先の部下を連れて技術センターに出張に出掛け、主任技官の方に装置運用のレクチャーを受けていた時ですが、ガムを噛みながら説明を受けている事の非常識さに本人は気付いていなかった事があります。更に、現場の作業服を腰ばきと言われるずらして着用している事にも驚いた事がありますが、作業服の意味(現場作業で巻き込まれ、着火の危険性から身を守る)を考えれば、それはナンセンスですが、その行為、或いは、決まり事の目的を考える癖が無いと、何も見えないのだろうと思います。

結局は、行動を理解する。自分で考えると言う事をしない事が共通していることですね。自分の行動の意味や目的を考えて意見を内面に昇華出来れば、このような事は起きないと思います。

投稿: 壱源 | 2010年2月14日 (日) 17時24分

壱元亭さんのサイトでなるほどと一番感銘を受けたのは、何事も自分なりに考える・理解するということが誰にとっても一番重要だということです。

不思議ですね、今の日本はその対極へと流されています。自分で考えずに”模範解答”やマニュアル的丸暗記的理解(理解といえるかどうか)へと半ば強要される社会。

マスコミも、、つい先ほどの五輪参加の選手の服装がうんうん、の報道。アレで良い、という人も一杯いると思うのに、けしからんという一方的な報道ばかり。日本全体が模範解答しか話さないゾンビ的人間になりつつあるような気がします。マスコミも、教育界も自分なりに考えることができなくなっている?彼らももう既にゾンビ?、、、

本来、教育の目的は一人一人が自分なりに考えられるようにすることじゃないのか?今の教育制度は違和感ありありである。自分なりに考えようとすることの重要性を説いているの人が皆無に近いのでは?壱元亭さんのサイトくらいじゃないですか。何故皆こうなってしまうのでしょうね。

投稿: 通りすがり | 2010年2月14日 (日) 01時31分

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