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2010年4月19日 (月)

取り戻せないモノ

 単車と自転車、どっちも好き。
 単車の場合、中学二年以来ブランクは無し。ずっと乗っている。自転車の場合、21歳から20年のブランクがあって今に至る。

 で、どうか?を較べると、、、、自転車の場合、ブランクがあっても当時と今の感覚で大きな違いは無いように感じている。当時出来た事は今でも出来る。それは変わらない。

 でも、単車の場合、ブランクがあったら、その前後の感覚は絶対同じにならないように感じる。実際、乗る頻度が大幅に減っているのは事実。その頻度の違いから、乗れてる感っていうのは、明らかに衰えているように感じている。今の感覚では、当時はもう少し行けたような感じ。そういうモノである。

 この違い、自転車の場合は、自覚運動で時間の流れが緩やかな事によるものだろうと思う。単車の場合は、自覚運動と言うよりも、反射的な受動運動で時間の流れが物凄く速い中で過ごしている点が大きく違う。

 自転車で乗れている感覚っていうのは、意識的に漕ぐという動作の中で生まれる感覚であり、老化と共に衰える部分は別としても、同じように目一杯頑張るという範囲では同じような満足感が得られるけど、単車の場合は、色んな情報に対する対処が可能かどうかと言う部分で、老化で対処出来なくなる要素が増えると、それが恐さという形で感情に残る。

 恐さとは、手も足も出ないという無力感から来るモノであり、自転車で恐さは感じないけど、単車では恐さは出てきても不思議ではない。勿論、乗り方次第だけど、自転車では漕ぐという行為、単車では曲がるという行為を趣味のターゲットに捉えており、漕ぐ行為は意識行動、曲がると言う行為は瞬時判断での反射行動に近い部分で、対応不可能な世界が恐さになるのである。

 反射というのは、自覚してやっていては間に合わないもの。身体が覚えて変幻自在に対応できる事が大事であり、慣れ、反射速度がとても大事。慣れと反射は、続けて接しない限り維持できないモノ。それ故に、自分流の単車の楽しみ方っていうのは、降りたら楽しめなくなる質のモノなのである。

 単車に安全に乗るというのは、速い流れの中で迫り来る様々な状況に的確な判断で対処出来ると言う事。それが、どの程度でできるか?という身の程を理解した上で行動する事が安全ということ。安全だからタンデムする気も起こるし、事故を起こさない自信にも繋がる。そういう考えに到達しなければ、激情的な運転、無茶な運転、ヒヤッとする体験に繋がる。そうしないためには、身の程を弁えて、状況を正確に判断対処する事が大事であり、状況判断の引き出しの多さは、乗り続ける事が必須なのである。これは、反射という神経的な領分が多く、ブランクが生まれると取り返せないモノ、、、そんな気がする。

 これが一番の宝物かもしれない。

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コメント

私、バイクに乗り続けていますが、峠は攻め続けていません。
そのためでしょうか、、、、峠を攻める時、当時は感じなかった恐さを感じる事があります。そこに失った何かがあるんだと思う訳ですね、、、、、それは、取り戻せないかも知れません。

投稿: 壱源 | 2010年4月20日 (火) 23時37分

 バイクから降ろされて15年くらい経ってしまいました。もう乗れないかもという思いが在ります。どこかでリハビリできないかと。

投稿: クマ | 2010年4月20日 (火) 20時41分

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