ソロ派
ソロ云々の記事を書いたけど、別に1人が好きという訳でもない。連んで行動するのも楽しい。ただし、何時連むか?何時ソロにするか?という点に拘りを持っているだけだ。
基本、ソロが好きだけど、何事に関しても言える事だが、稀に特定の世界だけで何とも言えない交流が生まれ、その交流に従って連んで行動するというのは、非常に楽しいものである。
単車を例に挙げる。単車でツーリングに出掛ける。ツーリングに大勢で出掛けるというのは実に楽しい。それは、大勢で出掛けて、出先で騒ぐというのが目的だからだ。当然、ツーリングというと行程において市街地、郊外、ワインディング等々あるけど、それはそれとして、一番の目的が出先で騒ぐ事ならば、大勢で出るのは楽しい。
しかし、行程におけるワインディングの区間で楽しむ時は、大勢で走るっていうのは好きではない。勿論、似たような世界を持つモノ同士ならOKだけど、必ずしもそうでない。
世界観を自分で持たない人が集まると、集団心理によって意識が高ぶるっていうのは、よくある話だけど、その意識の高ぶりがお互いに干渉し増幅し取り留めの付かない状態が暴走族みたいなものなのだ。世界観で独自の世界を持つ事が出来れば、大勢で走っても、見る対称は自己の内面だけど、自分を持たない人は違う。
どう違うか?っていうと、単車ならば、前走車両に頑張って付いていこうとしてしまうとか、そういうことだ。頑張る時には自分を見失っている事が多く、それが事故を招くのだ。自転車でも一緒である。速い人、仲間を見ると頑張って無理して付いていこうとする。これが嫌なのだ。
このような収拾の付かない集団っていうのは、前走者、追跡者ってポジションが殆ど決まっている場合が多い。そして、追う人は、常に無理しているものである。
しかし、独自の世界観をもって自分のリズムが作れる人というのは、仮に集団で走っても周りに影響されないのである。これが大事である。ペースが同じであっても、一方に引かれてペースが生まれるのでなく、個々のペースが偶然にも近かったというだけなのだ。だから、ペースが違えば、当然、追いついたり、離れたりする。これが普通なのだが、それには、自分のペースを自分で決める事が出来て保つ事が出来るか?が鍵なのだ。
自身はソロが好きだけど、ソロ同士が集まった形の交流で纏まるというのはこういう話である。判りやすく言うと、日常生活は違うけど、例えば、峠の常連組っていうのは、偶然にも同じようなペースで、同じような頻度、似たような時間帯に走り、ペースが近い物同士の交流から生まれる事が少なくない。そういう交流は、何に乗って、どんな走りをしているか?と言う事はお互い知っているけど、それ以外は知らない。そういう関係での連みは結構楽しい。
こういう感覚は、単車の世界での峠の常連関係がそう、自転車の世界でも何時も出会って挨拶を交わす人、プールで何時も挨拶する人との間で感じるもの。
一緒に走る事は稀だけど、偶然にも同方向に同じように走る場合は、傍目には並んで走っているように見えるかも知れない。そういう状態での走りっていうのは嫌いでない。
しかし、連みの世界で、世界観もレベルも全てが違う者同士での時間の共有っていうのは基本有り得ない。それは、前述したツーリングでの後続専門でハイテンションになる人の危険等を考えるからだし、そういう人と同じに見られたくない思いがあるからだ。
そもそも、自転車も単車も水泳も、競技的には個人競技である。それ故に、それを使った運動という面では、連む必要は全くない。交流という面で打ち解けるっていうのは楽しい。しかし、集団練習で高揚するのを容認するというのは頂けない。そりゃぁ、どんな詭弁をふるっても暴走族と一緒だ。人数が増える程に高揚する人が増えかねない。それは統率できないものだろう。結果、集団がレースの真似事したり、第三者に絡んだり、、、、そうなると、完全に暴走族である。
基本はソロで行動する。ソロで行動する者同士が、時間を共有するような、そんな緩やかな繋がりこそ大事にしたいもの。
逆に、別の世界での交流を、趣味の世界に引っ張り込んだり、引き込まれたりして、それを半ば強制の意識で無理矢理繋がる関係を保つっていうのは最悪だろう。
でも、こういう考え方って、好きな世界に入り浸ると、それぞれの世界で、その世界の中だけの友達が増えるのと同じ事。多分、アニメとか、、、そういう繋がりも似たように見える。
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