独り言
指導や教育というのは、学校で無い限りは、何か問題が起こった時に行うモノである。
そこで、何かを指導する時は、必ず、現状確認と状況確認を行うのだけど、そこで、遭遇するのが、見え透いた言い訳というか、嘘というか、そういうモノ。
嘘を付いても、咄嗟に本当の事に言い返す場合も多いけど、第一声に嘘を言ってしまうのは、多分だけど、虚言癖が付いているのだろう。しかし、咄嗟に本当の事に入れ換えるのは、嘘が見抜かれる事が想像できるからなんだろう。
一番の理想は最初に嘘を付かない癖を身に付ける事だけど、これはなかなか治らない。
しかし、咄嗟に嘘を付くのは、怒られたくないから。そうやって成長したからであろう。こうなってくると、多分、軽い気持ち、軽いノリで悪気は無いというか、咄嗟の言い訳が言い訳で嘘っぽいという自覚も無いのだろう。自覚が無いモノは直しようが無いのが現実だ。
なぜ、そうやって浅はかな嘘を付くように成長してきたか?というと、周りが気付かなかったのでなく、周りは、そういうモンだと相手にしなかったからだろう。考えてみれば、凄く不幸な事である。成人する前に、周り、家族、教師が、そういう癖を正してやらなければダメなんだけど、成人してからは、誤魔化しでしか生きていけなくなる。っていうか、話す本人にとっての自然の振る舞い故に、何も感じない、、、そして、周りは、そう言う奴だとレッテルを貼る訳だ。そういう輩に口酸っぱく注意しても、聞く方は、適当に流すのが大抵のパターンである。だから、咄嗟に嘘を付く人っていうのは、指導した内容の実践は見られた時だけしか行わないもの。見られていない時は、判らないだろう!ってノリで好き勝手しているのは想像に難くない。でも、誰かが何処かで見ているので、そういう日常は自然と伝わったりもするし、見なくても判るモノなのだ。
だから、日常を見て、目を見ていると、どう過ごしているか?っていうのは、簡単に判ってしまうモノなのだ。
それにしても、色んな人が居る。最近、訳のわからない犯罪がニュースを賑わす事も少なくないけど、そういう生い立ちが人格を作っているのは間違いなく、犯罪の温床というのは、社会における子供の人格形成の部分、即ち、家庭環境、学校教育の在り方に何かが潜んでいるのだろう。
最近、政府与党の政策のみならず、マスコミ等の発進する弱者救済の社会・・・・って言葉があるけど、その弱者には、いろんな内容がある。その内容を無視して、一切合切を弱者として保護するという方向性には、少なからず違和感を感じるモノ。
基本、生活だろうが賃金だろうが、全ての事象、全個人の境遇というのは、現代に繋がる全ての過去の蓄積が今の結果であり、今の状況は、過去の結果なのだ。即ち、不幸を感じる多くの原因は、個人の過去にある。それをリセットして、、、っていう考え方自体は、平等の原則から著しく外れるものだろう。
最近は所得税上限の引き上げ等々も言われているが、そういう事というのは、何か大きな間違いだろう。
是正すべきは、過去の蓄積で今に問題を抱える人の問題のある過去を気付かせる教育であり、そうするためには夢を与える事が大事。即ち、負け組から勝ち組に移れる仕組みだろう。
そういう仕組みが、嘘を突き続ける事に慣れた人の意識を変える唯一の方法のように思う。個人の教育で、人格を変えようにもどうにもならないのが現実だ。
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