連想ゲーム
どんなモノに対しても言えるのだけど、動きが目に見える自転車っていうのは、その使い方、形を見つめていると、何が良い?どうすべき?っていう部分が何となく見えてくるような気がする。
単車とかパソコン、デジカメといった入力に対して出力を得る過程がブラックボックス化されていると、イメージを生み出す事が難しいけど、自転車っていうのは目の前に晒されているのでイメージを生み出しやすい。生み出しやすいから理解しやすい。これって、関心を保つ上で大きなメリットと言える。
例えば、駆動するためにトルクを伝えるという行為を考えた時に、色んな瞬間、場面における応力の掛かり方っていうのは割と簡単に想像出来る。その際に構造体がどのように力を受けて変形するか?、、、、そういう事がイメージ出来る。そのイメージを確認するための簡単なジグを作る事も出来る。それで確認出来たら、それは一つの知見として財産となる。
こういう遊びは、自動機械では無理。それが見えると、各部の造作が機能にどんな影響を与えるか?そういうのが見えてくる。その読みの深さが深い程、所謂、深読みが出来る程、モノを具現化した時に、ココが違えばなぁ!って残念な気持ちが少なくなる。
別にモノを作る時に限らず、モノを選ぶ時にも、深読みする事で買って後悔を生まないという事にも役立つ。
モノの造作に限らない。モノの使い方でも言える。今の時代、本屋の自転車コーナーには乗り方本、ポジション指南本とか溢れかえっている。しかし、今の自分的には見る気も起こらない。全く関心が無いと言っても良い。振り返れば、大昔は一生懸命読みあさった事もある。たしか中学生の頃だ。しかし、、、、、今は、本屋で自転車本を手に取る事など皆無だ。単車本の場合は、中古車情報誌くらい。
今、例えばポジションというと、自転車の機能を考えた時に、何をどうするために存在するという原点を考えていくと、聞かなくても答えは見えてくる。
更に、乗り方、速さ、、、、そういう点を考えても、機械の存在意義、動作中における各部の運動状態を考えれば、何が○で、何がロス、、、そういうのは見えてくる。○×の判定は、機械という意味を考えたら大凡判定が付くモノである。判定基準というのは、割と単純な高校大学の物理の世界の知識だけで事足りるように思う。知っている万物共通の常識で判定出来るので、そのイメージの可否判断は自信を持って行える。
まぁ、イメージをどう組み立てるか?によって答えは違うけど、自分の考えるイメージを知っている他の知識で判断するという感じ。この連想ゲーム的な付き合いが出来るのは実に愉快である。
第一の趣味である単車では介在する不明瞭な部分がある。パソコン、デジカメ、、、やっぱり、自転車程シンプルでないので今一確信が持てない部分がある。
そういう意味で自転車って趣味は結構面白いし、長続きしそう。
しかし、こういうモノの見方が出来るようになったのは、正直、割と最近の話。少なくとも、学生時代には、こういうモノの見方が出来ていたか?というと、かなり怪しい。遡って振り返ってみると、、、塾経営で講師生活を長く続けて5年くらい経ってからのように思う。
製品開発とか材料開発、或いはシステム設計等を行う時にイメージ通りにモノが考えられるようになった頃と同じ時期だったように思う。
まぁ、イメージが湧くかどうか?が大事なんだろう。イメージが湧いた時点で答えは出ているような、そんな気もする。イメージが湧くっていうのは、未知の問題を既知の知識に当て嵌める作業だから、或る程度、既知の知識が無いと無理。既知の知識とは、即ち、経験である。モノを考えて考えた結果を納得するという繰り返しが経験である。
無駄とも思える授業は科目っていうのは、そういう知識の積み重ねの為にある。小さな内容は兎も角、科目の違い、内容の違いという細目は別として、総論として、全ては同じ方向に向いているモノ。これに気付く事が出来るか?が大事なように感じる今日この頃だ。
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