イジメで残るのは何?
転校生の小学6年生が学校でのイジメで自殺した事件。学校の発表では、当初はイジメは無かった。今はイジメは在ったけど自殺との因果関係は認められなかった、、、、。
学校の先生の責任問題、賠償問題を考えてからか、非常に解りにくい発表をしているし、それに対する報道の批評でも、様々な論評を耳にする。
イジメについては、色々言われている。加害者がどう?被害者がどう?、、、、
でも、そんな事はどうでも良い。
言えるのは、イジメで死んでしまった人は帰らないという事実。本来、成長過程にある子供は死を選ばない。成長過程にある生命体は生存本能しかないのだ。そこで死を選ぶというのは自殺ではないのである。それはタイムラグを与えた殺人行為なのだ。イジメという行為は精神的な攻撃であり、その疲弊の蓄積が許容値を超えた所が自殺という風になっているが、それは自殺でなく他殺、殺人なのだ。集団イジメというのは集団リンチによる殺人行為なのだ。
児童、生徒の自殺というのは、殆どが生命体の生存本能とは逆行した結末であり、その理由は、周囲による殺人行為の結果である。クラスメートが自殺した、、、っていうのは、そのクラスには殺人者、殺人教唆した者が居ると言っても良いのだ。極論すれば、関与した人間は殺人者として懲罰を受けるべきなのだ。どんなに綺麗事を言っても、それは不変の事実なのだ。
さらに、周りの発表がどうであれ、先生の話がどうであれ、、、、、イジメを行った側の心には、必ず死なせたモノへの行為、言動が忘れられない記憶として残るのである。
そう、、、、、、法的に責任を問われようが、どうしようが、、、、、加害した側には、命を絶った人間の死を決断させた関与を、心の奥底で否定する事は不可能。そう、虐めた側は遊び心だったかも知れないけど、これから一生、死ぬまで、人を死に追いやった(人殺しに関与した)という事実を抱えて過ごしていかなければならない。成長して色んな体験をする毎に、自分の親を思ったり、自分の子を思ったりする毎に、人を殺したという事実が本人を苦しめるだろう。
悪ふざけで済んで、後から笑える関係で終われば良いけど、死に追いやったという事があれば、それは、裁きを受けようが受けまいが、人の命に幕引きを行ったという関与が確実に存在するのだ。イジメで人を殺す。自殺に追いやる。その瞬間、虐める側は大した意識は無いだろう。イジメで自殺した人も、冷たい言い方だけど人生はそこで終わる。一方で、残された遺族には、消し去る事が出来ない恨みが残る。
そんな後の世界を考えると、実は辛いのは虐めに関与した側である。関与した側には、人を殺したという事実から逃れられないし、他人から恨まれているという事実からも逃げられない。仮に良心が少しでもあれば、自身の良心の呵責からも逃げられないのだ。どんなに良い行いをしようが、名声や金を得ようが、人を殺した事実だけは変わらないのである。だって、殺人者だからだ。
そういう意味で、悲劇を生むようなイジメにおいて、一番不幸で悲惨な結果に合うのは、実は、虐めた側である。虐める側の年齢が若い程、今回のように小学生だったりすると、その後の学生生活、社会人生活、結婚生活からずっとずっと一生死ぬまで、自分は殺人者という事実を背負って生きて行かざるを得ないのである。
そこで、何が不幸か?というと、ハナから殺す気がある筈もなく、結果として殺人者になるからである。集団イジメなんかでは、悪意が大きな筈もないが、それでも結果的に殺人者になる。それだから恐いのだ。気が付けば殺人犯、、、、悪気は無かったのに殺人犯、、、、これって、そういう立場になったら、相当にきつそう。
遊びで済むうちは良い。後から仲直り出来るなら良い。でも、それが出来ない最終事態迄追い込むのは、、、、後から、虐めた時の数千倍、数万倍の苦痛を一生味わうのである。イジメで生まれるもの、、、、それは、、、、、虐めた側に残った人生で抱えざるを得ない重い重い十字架なのである。これは人間にとって最大の苦痛だろう。イジメで生まれるのは、虐めた側に襲いかかる一生消し去る事の出来ない大きな苦痛なのである。
脅しではないけれど、道徳の時間では、人の成長で何を考えるか?考えの成長はどうか?という教育をすれば、少しは良いのでは無いだろうか?少なくとも、イジメという行為をエスカレートさせて行うような年齢には理解させる事が出来るのでは無いだろうか?
仮に、身の回りの近しい人間が、そういう事態に追い込まれたとしたら、多分、それ以上の苦痛を死ぬまで復讐する、、、、そういう人は凄く多い筈。人を殺すと、それ以上の恨みを買う事を理解させるべきだろう。人間の心理や本能を判りやすく伝えるのも教育には必要な筈だ。特に、悪気が無かったのに、そういう十字架を背負わされるのは、殺人者とは言え不幸と言わざるを得ない。
因みに、毎年500~1000人の生徒、児童の自殺があるそうだ。これは99%が衝動殺人の被害者。一対一ならイジメにならない。喧嘩だろう。喧嘩なら問題無い。自殺というと、クラスの中に拠り所が無い状態。つまり、一クラス35人とすると、500~1000人×35=17500~35000人が衝動殺人犯、殺人教唆犯ということ。報告では、イジメ認知件数、暴力件数とかあるようだけど、認知基準が曖昧だから意味無いだろう。事実としては最大35000人の殺人に関与した子供が増えているという事実だ。その35000人の人間は一生、自分の行為が人の命を奪ったという事実を背負っていかざるを得ないのだ。
今回のイジメ殺人の報道で、教育者の弁解、遺族の証言を聞いて、つい、感想を書きたくなったのである。
| 固定リンク
コメント
イジメと指導、、、似て非なるものです。キツイ論調、激しい叱咤であっても、背景に悪意があるか?善意があるか?が大事です。
悪意が潜むモノがイジメです。善意があるものは、場合によっては犯罪者や昔でいう不良に対する更正指導でキツイ部分があるかもしれませんが、それでも相手を死に追いやるモノでは在りません。
無関心や放任はいけませんが、善意を持って本気で接するという人が少なくなり、善意の無い、場合によっては悪意に満ちた行動が目に余るのは、地域というか、社会というか、時代というか、そういうモノが壊れていっているように思います。
投稿: 壱源 | 2010年11月17日 (水) 23時38分
そうですね。
しかし、想像の域ですが、他人を悪い状況へ追いやれる人達は、きちんと考えられない所を持っているのではないかと思いました。例えば嫌な事は見ないし考えない。全てヒトの所為で自分は悪くない。これ、依存症のヒトに良く見られる考え方ですね。若いうちからこのようなら将来は無さそうです。学校も駄目ですが、家庭も駄目なんでしょうね。地域の力が見直される必要が有りますね。
投稿: クマ | 2010年11月17日 (水) 22時43分