整備とかフィッティングとか
整備と調整っていうのは、似て非なるものだ。
機械というのは、構成要素の関係が適切にあるというのが大前提であり、それが適切な状態で初めて機能するもの。そういう意味で、純粋にメカとか完成車とか、そういう部分で組立状態が機械整備のイロハに則っていたら、基本、どれも同じと考えて良い。
人との関わり合いという部分では、セッティングというか、フィッティングという部分はどうか?これも、人を機械を操作する上で機械との接点における動作が機械の道理に合うように人の動作をマッチングさせることであり、それが出来ていたら、やはり乗る対象を換えても結果は同じと考えて良い。
これが原則だと考えている。
世間一般には、組み方で差が出るという話を聞くけど、組み方で差が出るというのは、今一つ、理解出来ないのが正直な感想である。『組む』という言葉は、機械要素が適切な関係を持った状態であり、それが機械のセオリーから外れていたとしたら、それは『組んだ』事にはならないのだ。つまり、未完成。未完成なモノは乗ってはならないものである。
現実、ベアリングの球の数が足らないとか、ニップルが手で緩むとか、そういう状態を見た事もあるけど、その状態で、機械自体を評価するのは間違いで、恐らく、セオリーに従って普通に組むと違う意見が出ると思うのである。
更に、セオリーに従って組むという行為の上があるか?というと、、、、これは実に微妙である。セオリー以上の組み方、、、、それは、特化した組み方であり、特化すると言う事は、犠牲を払うという事。つまり、トレードオフで初めて特化出来るのである。しかし、トレードオフで失うモノを素人が容認するか?というと、それは無い。となると、素人向けというのは、基本、セオリー通りとなる。セオリー通りで組んだ場合、組まれた結果に人による違いが出るか?というと、これは、、、、、自分としては違いが出ないと思う。このトレードオフをイメージした一つの例を挙げると、チェーンホイールが多段、カセットも多段の多段変速車におけるチェーンの長さ、、、、本来なら全段組み合わせでも、使えるように!って条件を入れるけど、アウター×トップから数枚、インナー×ローから数枚に限定した使い方に限ると、チェーンテンションを強すぎず、弱すぎずとなるようなコマ数で組む事も出来るし、使い方を制約する事で、実質キャパシティーが増加する分、歯数選択肢を拡げる事も出来る。しかし、これは失うモノの容認があって成り立つもので、こういう選択肢を提示出来るのがセオリーの上かもしれないけど、普通は、セオリー通りに従うだろう。
思うのは、機械要素のセオリーに従って、道具のセオリーに従ってフィットさせたモノは大きな差は感じない、、、、、という事。当たり前にやれば、当たり前の結果を得るということ。まぁ、今の時代、当たり前にやっても当たり前の結果が得られないような品質の製品も有るけど、少なくとも、国産ブランドや相応の相場や価値を持つ流通品では有り得ない話。セオリーを越えてプロのプライドを語る人が新興国産の安物への危惧を語る事は無いだろう。
まぁ、自転車を舐めている訳ではないけど、自分レベルで分解、組立をやって不満の無いモノが得られるのは非常に有り難い。そして、自分が組んだ状態というのは、基本は最低限度セオリーに従った組み方と認識しているけど、それ以上の組み方があったとしても、その差を感じる事は出来ないだろうなぁ!というのが素直な感想。さすがに、自転車のパイプを自分でロー付けして組み立てる程の腕は無いけど、、、、
| 固定リンク
コメント