出来るようにするには、
何種類かの、何パターンかの自転車を持っている。乗り分けると、自転車なりに乗る。人っていうのはそういうモンである。自転車に限らない。何か道具を使って行動する。すると、道具なりに何とかしよう!って考えるのが人間の人間たる所以である。
言ってみれば、不自由なモノでトライする程に、考えるものである。考えるから気付く。そういうモノである。何を気付くか?それは、、、、不自由を体験したモノのオリエンテッドなモノであり、それは何とかしたがる人にとって、掛け替えの無い財産になる。そういうモノである。
昨今の自転車ブーム、20年前のレプリカバイクブーム、そういうブームの時代を振り返ると、周りの奴から、何をどうしたらよい?って質問を受けたり、いきなりレプリカ、いきなりロードって奴から、どうしたらイイ?って質問を受けたりしてきた。
そんな時の回答は、基礎からコツコツ、出来る範囲で自分で考えて、自分のトライ安堵エラーで気付くものを身に付ける行為から始める事。つまり、いきなり完成形を手に入れて遊ぶのでなく、完成形とは単車でも自転車でも用途の特化した競技機材に近いので、そういう特異なモノとは異なる汎用的なベーシックなモノからコツコツ始めれば?って助言をしてきたけど、それに従う奴とそうでない奴に分かれていた。
経験上、コイツ、上手くなったなぁ!って奴は、指示に従って続けた奴。そして、コイツ、何やってもダメだなぁ!って奴は、形から入って色んな伝聞で情報に埋もれた奴。
そういう感じだ。
まぁ、そうやって情報と経験を蓄積して、それなりに誰しもが世界観を築く。勿論、俺もそう。
しかし、世界観を築いて意固地になると、実は形から入るような奴と同じ状況に嵌りかねない。世界観を築いて他を受け入れなくなったり、過去を振り返らなくなったらダメなのだ。世界観を築いて、更に拡げるために、原点に立ち返る。これが大事である。原点に立ち返り、これまで毛嫌いしていたジャンルとか、一度終わった!と理解したモノに再度接すると、新しい世界観が拡がる。そういうモノである。
正直、世界観を築いていても、その後に修得した知識や経験によって、過去の思いが間違いだったり、不明瞭だった部分が明確になったり、見えなかった部分が見えてきたり、そういうモノである。見えなかった部分が見えるっていうのは、理解できると言う事。理解って言うのは、信じる事の出来る理屈が当て嵌める事が出来ると言う事である。そう、言ってみれば、色んな専門分野や雑学の修得によって見えてくるのである。そういう意味で、色んな経験や学習っていうのは無駄では無かったとも、今は思えるのである。新しい知識を身に付ける事というのは、そういう意味で凄く有用なのだ。
ここ十数年で経済的、時間的にも余力が生まれて、学生時代と較べると考える知識や経験も遙かに増えた。それで行った事というと、過去を振り返り、再度、色々やり直してみるという行為。それが、チッコイ単車を集めたり、経験済みの世界の自転車を再構築したり、、、、という行為に繋がっている。
で、思った事、、、、それは、最近好んで乗るピストバイクだけど、ギア比の重たいピストバイクでヒルクライムから平地走行迄行っていると、走る上での選択は無い。選択は無いけど、55km/hオーバーで走らせたり、13%勾配のヒルクライムを15km/hで駆け上がったりしたくなる。そうするために、色々と考えを巡らすのである。すると、、、、不思議なモンで、出来るようになる。勿論、出来るようなるために、どうすれば良いか?を考える。限られた条件で目的を適えようとすると、どうすれば良いか?、、、、これが見えてくる。決まったギア比で55km/hに到達させるには、どうすればよい?を考える。そのギアで15%勾配を楽に上がるにはどうすればよい?を考える。これが大事。
前の記事で『組み上げるのは、』って記事を書いたけど、これはフレームを組むのでなく、組まれたフレームの数字の関連性の理解を頭で組み上げるって意味。
そして、この記事で『出来るようにするには、』っていうのは、制限された条件を最大限活かして願いを適えるという意味。もっと言えば、どうするのが合理的か?と考える事。理想を持って漕ぐという行為を考える事だったりする。
最近は、昔は考えもしなかった事を考えるようになった。御陰で、ペダリングについて自分なりの理屈と方法論が決まってきた。これが決まれば、、、、そう、いよいよオーダーフレームの作成を行ってみたい。
| 固定リンク
コメント