教訓を生かすか?切るか?
高台の集落は先人の教訓に従い守られた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110329-00000888-yom-soci
だそうだ。
でも、多くの人は災害の事はあまり気にしていないんだよなぁ、、、勿論、原発の設計にしても然りだ。大きな災害があった時は、確かに、そういう機運が盛り上がる。しかし、年月が経てば感心を失う。
最近では住宅広告で平成3年台風19号に耐えた家、阪神大震災に耐えた家なんて宣伝しているけど、それで選ぶ人っていうのが、どれ程居るか?1000年に一度と言われれば、この後、1000年は無いか?とも思う人も少なくない。
しかし、災害っていうのは襲ってくれば確実に被害を受けるもの。この危険を教訓として過ごせば、このように無事で居られる。しかし、災害が1000年に一度だから、、、という数字の確率論で物事を進め、安全率が○○%だから的に進め、あまりにも安全サイドに振ったら設計出来なくなるという論理で進めると、その万が一で痛い目に遭う。
物事の進め方を、確率論、統計論で進めるのが正解か?を考えさせる出来事だ。それは、今の放射線の影響で数字云々と言われている事を飲むか?飲まないか?にも通じているように思う。確率論、統計論、、、、この論理には条件がある。条件を外すとどうか?という所が見えない。なんだか途中から危険な放射線の限度が100msvから250msvになったりしているし、誰も訳判らない状態になっている。そうしないと事故処理作業が出来ないから法的制限を緩和しているだけあろう!となると、信用できるか!という、こういう意識を誰しも持つのは仕方ない事かもしれない。
教訓に従うときは、そういう論法は不要だけど、確立論、統計論に従うと、その数値に煽動されたりする。それに対して信用度が無ければ、その論理に発表前に論理のすり替えで安全を謳っているのでは?という嫌疑も生むのである。
因みに、自分は理系で基本的には数字を重視するけど、私事になると絶対安全を志向する。確率的に安全とか、発ガン性は0.5%しか増えないと言われても、駄目な物は駄目という風になってしまう。
自分の住んでいる広島では、一応防災Webなるモノがある。
http://www.bousai.pref.hiroshima.jp/hdis/index.jsp
広島の場合で全国でも土砂災害危険度はワースト一位であり、当然、家を構える時はその災害マップで危険!ってなっているところは、如何に便利で、如何に日当たりがよくってもパスしてきた。
何をどう捉えるか?非常に難しいものだけど、個人としては教訓、歴史に従いたい。論理というのは、得てして見落としているモノがあるものである。そういう不完全な論理で出された確率の数字なんて信用出来ないという思いが強い。勿論、そのような数字の根拠を納得出来れば別だけど、、、そうでない場合は、石碑の教えではないが、教訓を大事にするものだろう。
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