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2011年4月 2日 (土)

自分の事、他人の事

 思いっ切り本音。

 リスクに対する考え方について、、、、、

 自分の事、自分の家族の事として考えると、怪しいリスクは完全除外。可能性がどう?とか、確率が何%とか、、、、そういうのは完全に無視。理由は、その数値根拠となる条件や仮定を全く信用出来ないから。となると、○○%という数字だけで安全を受け入れる事は無い。
 下手な学問や知識、論理より大事にするのは、教訓であったり、言い伝えだったり、諺。こっちの方が何倍も信じる事が出来る。学問程都合の良い理屈は無い。それ故に、信じない。特に、自分の知らない分野の学問の論理を持ち出されて、その結果だけでリスク評価しても、、、そんなの受け入れる事が出来ない。
 放射線の影響でも急性障害を来さないというなら理解できるけど、低放射線量を持続して受ける状況が将来における影響についての論理は触れられていない。体内に取り込んだ放射性物質が出し続ける放射線についての考え方も判りづらい、、、、
 理屈が理解出来ないモノ、、、、そう言うモノには近づかないのが賢明。
 石碑より上の集落が守られた話があるけど、それも然りである。リスクを回避するならば、先人の経験、知識を無視する事は出来ない。兎に角、安全サイドで行動の選択をする。

 しかし、、、自分の身の事以外で考える時、、、、自分の命に影響しない自分の行動を含めてだけど、そういう場合は、自分の信じる知識、即ち、自分が納得できる論理に従った数値、安全性というのは信じる。
 全く、御都合主義かもしれないけど、自分の命に関わる事では不安要素は一切認めないが、自分の命に関わらない事。例えば、自転車どうする?単車どうする?食事どうする?とか、そういう部分では、自分の納得出来る論理に従って進める。何某かの選択の際でもリスク評価を行って、リスクがゼロでなくても少ない方で納得する場合も少なくない。

 そして、自分の行動が他人の命に関与する場合、、、、その場合、自分を納得させる論理において安全率とかそういうモノで判断は行わない。自分を納得させる論理を作り、その論理に対する指摘に対して100%の解答が行える状態で、どんな相手でも理屈で納得させる事が出来るレベルであって、初めて、それを適応する。
 妥協して、大丈夫だろう的は判断を、他人の生活や命に影響する物には与えない。
 安全衛生でいうところの『絶対安全』とは違うけど、自分の言う『絶対安全』な物しか関与させない。
 自分でいう絶対安全とは何か?思い付くありとあらゆる手を尽くして、論理に攻撃を加えたとしても、それが破綻しないという様の事。ある条件では大丈夫というのではなく、何があっても大丈夫というレベルの話。
 逆に言うと、自分の判断で財産や人命を脅かしたくないから。それは悪気が無くても、一生背負う十字架となるから。
 勿論、性能表記を改竄して売るなんて事は少なくとも自分はしない。それも思想的には、人の財産を脅かしている事に相違ないから。

 これはかなり少数派なんだろうと思う。このように考えると、リスクに対する責任ある行動を官僚や政治家、経営者がしているか?というと、かなり怪しい。何処か他人事的な空気を感じる。

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