本末転倒
技術に限らない。政治でも、スポーツでも何でもだけど、、、どんなモノでも、モノの究極を突き詰める、、、これはモノに携わるモノの本能とも言える。そして、数多くのモノが乱立していても、その突き詰め具合の差が淘汰に大きな影響を及ぼす。そう言うモンである。
製品手法、スポーツのテクニック、政策、、、、全てがそうだろう。
そして、それらは淘汰に打ち勝つために必然的に進化させられれる。その進化の競争に敗れたモノが淘汰される。
その淘汰の対象となったものも、簡単に淘汰される訳ではない。携わる人間によって、あの手この手で生き残りを測るのだ。
工業製品なら、余所の技術の導入、猿真似、模倣、性能偽装、改竄、、、、、開発だったら、横文字で煌びやかな手法(エンジニアリング、アナリシス、シミュレーション、、、、)といった言葉で飾る。趣味の世界、例えば、自転車なら高級ロードに乗ったから速いとか、ビンディング付けたからペダリングが上手くなるとか、、、、
しかし、世の中、そんなに甘くない。目に見えるモノを軽く真似たり、調達しても何も変わらない。そういうモンである。
ビンディング付けたらペダリングが上手くなる、、、なら、それって道具だけの話?って事になる。車ならターボ付きなら速く走れるとか、、、、製品なら、カーボン複合材使ったから高性能?、DLC処理したから大丈夫とか、、、、或いは、こういう解析したから事故は起こらないとか、、、、
そんな筈無いのだ。
こういうモノが助けてくれる的な考え方っていうのは、論理を持たない対処思想なのだ。
大事なのは、目的を定めた本質を見抜く力なのだ。それが無いと、何の意味もない。何かを利用するには、利用する必然が何か?その必然を成立させるものは何か?それが判らないとダメである。目に見える他者のモノが結果を与えてくれる的な考えでは、、、、答えに到達するのは不可能なのだ。
| 固定リンク
コメント