全ては必然
妬みの入った『凄い!』とか、卑屈の入った『出来ませんモン!』とか、そういう文言は正直嫌い。
凄い!って言葉の意味が大事。素晴らしい結果を叩き出す人に対する感想として『凄い!』って意味合いは、その結果もだけど、その結果を望むために積み重ねてきた背景を含めて凄い!というのが正しい『凄い!』だと思う。
出来ませんモン!って意味も然り。それは、言葉を吐く人が出来るようになるために必要な積み重ねをしているかどうか?が大事。何の積み重ね無しで、出来ませんモン!って言葉を吐く人が居たとしたら、、、、それは、当然だろ?って言いたくなる。
会社なんかでは、何かにつけて、それは出来ないとか、わからないとか、そういう言葉を吐く人がいる。しかし、そういう言葉を吐く人は、その対象を紐解くための努力や積み重ねをしているか?というと、そう言う事をしていない場合が多い。それって、、、、、出来ないとか、判らないとか以前の問題。言ってみれば、判るという結果を得る必然を放棄している訳であり、出来ないというよりも、判りたいと思っていないという事。
どんな結果にも必然というか原因がある。全ては必然なのである。積み重ねた結果が全てだけど、その結果は、当然の如くもたらされるモノなのである。
意識としては、人間という生き物、そんなに差はないのだ。皆同じ。違いは、結果を得るための積み重ねの量の違いが殆ど。凄い取り組みをやれば、それに応じた答えが出るだけのはなし。
世の中に天才や秀才など居ない。勿論、馬鹿や阿呆も居ない。皆一緒。違いは、知りたい、なりたいという願望の強さ。願望の強さ=取り組みの差である。望む心が強ければ、結果を得る積み重ねを続けるだけ。続けた結果が差になる。その差は当然の違いである。
それ故に、凄いとか、出来ませんモンとか、、、、何もやらずして、凄い結果を得るのが間違い。何もやらずして、出来ませんモンって不平を言うのは資格無しだ。
何を望むか?で積み重ねた量が、自負になる。そういうモノである。
因みに、自分は何を望むか?というと、二十代の体力と運動能力と健康状態。それがライフスタイルに反映されているだけ。体年齢とか能力を誉められたり、羨まれたりする事はあるけど、今迄の積み重ねの結果が今であり、当然の結果である。そう言うモンだろう。
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