指導と教育
指導と教育、似ているけど違う。
指導というのは、何某かの業務や行動を行う上で、道しるべとなる指示を出して進める事。実際の行動は行わないけど、行動を行わせる事。
教育というのは、指導という部分を担当が自分の発想で行えるように育てる事。
我が子に対しては、教育も指導も行うけど、、、、企業組織において、それが必要か?というと、かなり微妙。
指導は行う。指導の際には指示を出す。これに異論は無い。しかし、指導する場合は、指導するという体制、手順、ルールが必要。部外からの指導は有り得ない。仮に、指導する側、される側という立場関係になったとしても、指導される側が指示を理解出来ない場合、その指示が理解出来るレベル迄噛み砕いて、理解するに必要な知識等を教えることが不可欠だけど、その知識が何処の段階で身に付けるべきモノか?によって、教えるべきか否かが分かれてくる。
ある社会、組織において固有なモノの場合、教育や伝授の対象となりうるが、社会、組織の固有性が無く、一般的なもの、普遍的なもの、、常識的な知識、、、そう言う場合、それを教える必要があるか?というと、、、、正直、それは無用だと言える。極論すれば、わり算を教える場合、掛け算が理解出来ない奴に掛け算迄教える必要があるか?と言う事だ。
指導を行う場合、指導を受ける側は、相応のバックボーンが必要だけど、そのバックボーンは、指導を受ける側が整えて準備するというのが指導を受ける側の礼儀だ。指導を受ける側が、バックボーンを無い状態で指導を求めるというのは、恥知らずというか、有り得ない。指導を受ける側の礼儀として、発想を取りまとめる上で必要な知識や手順、そのようなモノは当然、身に付けておかないとダメ。
指導とか教育とか、そういう言葉を聞く事は多いけど、その場に出会す場合、果たして、指導出来る環境にあるか?指導する上で、教育という名目で知識を垂れ流すのは正しい事か?という事をいつも考えてしまう。
そもそも、指導が出来るというのは、問題を見抜いて理想を具体化が出来るということ。つまり、必要な知識を身に付けてきたか、身に付ける必要性を認識している筈。その必要性を理解している段階で、何某かの分野において、物事の流れというか生い立ちというか、必要性というか、そういうモノが見えている筈だ。そう言うモノを掴んでいくと、色んな事の繋がりというか、共通性が感じ取れていくのだろう。そこで初めて、独創というか発想力というものが生まれるもの。独創とか発想力が夢物語でなく具体化可能なモノとなるには、やはり、そのような経緯というか手順を踏んでいなければダメだし、そういう段階に育て上げるには、そういう積み重ねを除外しては有り得ない。
口で簡単に、指導とか教育とかいっても、一方だけが踊っても叶わない。受ける側が、相応の準備(積み重ねと心構え)を施すのが大前提だ。この前提の必要性が理解出来ないと難しい。
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