各自が各自で
何でも、誰でもだけど、各自が各々の立場で行うべき事は、各自なりでなく、道理の上で道理に従って、各自が行う。ここで言う、各自なりというのは、各自の勝手な屁理屈を認めるのはダメだけど、各自の哲学に従って道理の上で筋の通った方法ならOKという意味。
物事の判断、進め方、決め方、、、分野に依らず基本的な進め方は共通。進め方というのは、手順の話。手順は決まっている。手順で追うところの判断材料、判断基準も道理にしたがったもので、それも決まっている。違うのは、手順を作る上で考える骨子の部分。何を骨子に選ぶか?は、担う人間次第だけど、骨子の中で進める手順には確実に正解と不正解があり、手順で追う段階毎の判断にも正解、不正解がある。
どういうルートを通ろうが、ルートで問題を解決するために作る手順というかストーリー自体は共通で、そのステップ毎の進め方も知識分野の違いはあれど、判定の仕方は共通なのである。
現実にモノを完成させる。問題を解決する。そのためには、必ず上述のプロセスを踏む必要がある。それが価値なのだ。知識の断片を知っていてもダメ。大事なのは手順を実践するストーリーを組み立てる事。そのストーリーを進める手順を誤らない事なのである。この部分が大事。
先日、とある複数の案件について社長、会長と話しをしたけど、こういう話をした。その上で、大事なのは、ストーリーを作る能力と、手順を組み立てる能力、手順を消化する上で必要な知識が大事という話もした。そして、この部分は、泥縄式的に教育して伝える事は無理という話もした。正直、こういう能力が、僅かな会話で伝え実践できるようになるとは思えない。
それ故に、ヒントとなる情報は提供しても、それからイメージを如何に膨らましストーリーを組み立てるか?という部分は、やはり担当に任せるのが一番ということで、そういう基幹的、根本的な部分を受け持つのは丁重にお断りさせて頂いた。
こういう力は各自が、或る段階で気付き身に付ける意思を持った時に、各自が足らない部分を補って身に付ければよいのである。
そして、それが大事と言う事に、誰もが気付くとも限らないけど、それはそれで良いような気もする。気付かず、表面的な体裁のみを整えるだけで結果を得られない事もあるだろうけど、それはそれで良いのだろう。
色んな理解、色んな自覚、それがあるから面白い。それでも生き残っていけるのなら、それはそれで良い訳だ。生き残っている世界なりの常識に従う、、、それが結果論的に正解な訳で、それが格のようなモノなんだろう。
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