定年後の夫
と題した特集を見た。そこで紹介されていたのが、60代の男性の日常の過ごし方。
家で一所に座って一日を過ごす人、街にでてベンチで座って時間を過ごす人、、、このような姿を見て、定年を控えた50代の人は、趣味を10個を持てば大丈夫という意見。
一方で、勤め上げて定年し、趣味も豊富な人が紹介されていたけど、その人の意見によると、『必要とされて、人のために働くから、活動に意欲が湧き、やりがいが出る!』、『趣味という世界では、それが感じられないから、人の為に働くというのがないと厳しい、、、』との意見。
人の為に働くサラリーマンは、サラリーマンとしてしか輝けない、、、そう言う事なのだろうか?
これ、現役の状態で人の為に働くという意味の捉え方次第のような気がする。
人の為、、、これが、部下の為、経営者の為、、、、そういう組織への忠誠のための労働であれば、組織から離れれば、こういう虚無感を感じるのかもしれない。
考え方次第だろう。仕事というのを給与のための我慢と割り切り、家族のために働くという考え方であれば、定年しても家族のために出来る事を見付ければ良い訳だし、部下とか経営者の為といった組織への忠誠の為という価値観ではなく、例えば、技術系ならば、全く新しい価値観を生み出して、社会のために自分の知恵の足跡を残すという考え方ならば、組織に属しているか否かは、全く関係無いようにも思う。
ただ、このように大きな意味で社会のため、人のためという気持ちで物事を取り組むためには、そのための新しい仕組みを独力で生み出すか、或いは、組織に属して、組織活動を通して社会貢献を実感するには、その組織が社会に与えるサービスや製品が、嘘偽り無いモノでなければ、後ろめたさしか残らない。社会的に偽善的な行動は、経営者の為という意識は持てても、社会のためという意識は持てない。偽造製品や捏造、模倣品の販売や、詐称的サービスでは社会貢献という意識は持てないものだろう。
定年後のサラリーマンの生き甲斐を特集していたが、定年後に居場所感、達成感が感じられない人というのは、全く個人的な感想だが、誉められて、感謝されて満足を感じてきた人達のように見える。この誉められてとか、感謝されてというのは、原点は、依頼や命令に対して回答や成果を出してというのが基本的な構図であり、彼らの行動には、自発性では無いといってもよいだろう。
定年後に備えて趣味を沢山持っていても、その趣味の持ち方、選び方、接し方は、そのように自発性の無い人とある人では大きく違うのではないだろうか?
趣味があってもダメといのでなく、行動に自発性があるかどうか?自身の行動に自分で目的を定める事が出来るか?が重要だろう。自分で目的が定められるのであれば、業務だろうが趣味だろうが、自分の目的に対する冷静な達成感で喜びを感じるもののように思う。
言われた事をやる、命令に従う、誉められて喜ぶ、、、、そういうパターンに慣れていると、恐らく自発的な行動は取れないような気がする。そう言う状態で、いきなり自由な定年を迎えても喜びを感じる生活を作り出すのは、もしかしたら不可能かも知れない。
趣味の有無、多少ではないのである。大事なのは、行動を自発的に行い、自身の判断で達成感を感じる事ができるかどうか?なのである。
言ってみれば、独創力、企業に属している時なら、開発力が有るかどうか?これが、定年後の過ごし方に大きな違いを生むのではないだろうか?
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