原子爆弾を始めとした大量破壊兵器、無差別殺戮するので決して好ましいモノではない。
先日、40年ぶりくらいに広島平和公園の原爆資料館に出掛けたのだが、原子爆弾の被害の恐ろしさを再認識したり、東京大空襲70年の特番番組を見たりしたのだが、一方で、このような大量破壊兵器等の残虐な戦争行為について考えさせられるところが多くあった。
はたして、そういう大量破壊兵器、無差別攻撃を、その残虐性から責めるだけというのは正しい事だろうか?考えると、その解答は簡単に出てこないように思う。はたして、そういう行為がなければ、どんな事態に陥ったのだろうか?仮に、原爆投下が行われず、全土に絨毯爆撃が繰り返されたとして、誰かが生き残っていたのだろうか?等を考えたりする。
当時の軍部がどうかは知らないが、最後の一人になっても戦い抜くなんて、アホみたいな精神論を振りかざしていたのは事実だろう。
攻める方も如何に早く終わらせるか?が重大な課題であり、その判断で行動方針が決定されたのも事実だろう。大空襲や原爆投下がなければ、もっと戦争は長引いたかもしれない。
そんな事を考えると、当時の判断も一つの選択肢として正解だったように思う。
今はISILによる紛争状態の解消が国際社会の課題となっているが、今の精密誘導弾による精密爆撃では、恐らく紛争状態終結には繋がらないような気もする。今のISILの戦い方を見ると、太平洋戦争末期の日本の軍部の戦いを最後迄進めるという論理に、何か近い印象を感じるのは自分だけだろうか?
日本の終戦前の状況では、軍部は、女性、子どもに竹槍を持たせ、上陸してくる連合国兵士と戦わせるという無茶な行為を行わせていたようだが、今で言うISIL少年兵との違いはあるのだろうか?
そういう相手に対して、民間人の犠牲をゼロで精密爆撃という方法は、紛争終結を早める目的からすれば、殆ど効果が上がらないようにも思う。
70年前の竹槍訓練を行う、女性、子どもを含めて、それが民間人だったのか?というと、その判断を簡単にする事は困難だったように思う。当時の無差別な絨毯爆撃や、大量破壊兵器を否定するのは簡単だが、国民全てが兵士だという社会では、相手側から見れば、全てが敵だと考えていたとしても不思議ではないとも言える。果たして、原爆は兎も角、無差別爆撃等が行われていなければ、果たして、当時終戦に向かったか?というと、非常に疑わしかったのでは?というのが個人的な感想だ。
大量破壊兵器等の残虐な兵器によって被害を被る事は悲劇としか言いようがないが、当時の状況を今に伝える上では、その悲劇の一面だけを伝えるというのにも違和感を感じるものだ。そういう事態に国家が陥ったのには、当然理由が存在する。遡っていくと、主張が受け容れられないという理由で国際社会から離脱して突っ走った体制こそに原因があるのだろう。主張が受け容れられないからといって武力に打って出るというのは、今で言うテロ国家と然したる違いは無いだろう。
当時の主張が受け容れられないのは、先に国際体制を作った強者側からみれば当然とも言える。そこに差異を付けられて差別と憤慨するというのは、考え方自体が間違っている筈だ。
当時の世界の体制において、一国が反旗を翻したところで、常識的に考えれば体制をひっくり返す事など出来る筈が無い事は、多くの人が判っていただろうが、戦争を主導した勢力には、そんな事が見えなかったのだろう。いや、見えない程に、思考が狂っていたのかもしれない。そんな体制が主導する国に、敗戦を認めさせ戦争を早期終結させるためには、空襲等の無差別爆撃が一定の効果があったという考え方もアリだろう。そんな事を考えると、ISILのテロ紛争を終結させるには、精密爆撃以外の選択肢の可能性も考慮すべきのように思う。そうでなければ、地上部隊投入というやり方では、攻める側の被害も拡大するだろうし、早期終結は無理のような気もするのだが、、、、
終戦を早めるために行われた様々な行為には、多くの悲惨な状況が生まれるが、それを被害と捉えるべきかどうか?というと、非常に難しい。被災、損害ではあるが、被害とは違うようにも思える。そんな戦争というのは、勝てば正義、負ければ悪である。仮に、同じ行為をしていたとしても、責められるのは負けた方だ。害を被るという被害は、正しい(勝った)方が受けた損害の事で、負けた方の損害は、少なくとも勝った方による被害とは異なるものだろう。敢えて言えば、負けた側の損害というのは、そういう事態に引き込んだ主導部の行為による被害ということだろう。
異論を唱える人は居るだろうが、個人的には、大空襲や原爆投下による被害の責任は、少なくとも投下した側でなく、そういう戦局に国家を追い込んだ主導部にあると考えている。
戦争状態となれば、人権を無視するような酷い行為が行われているだろうが、その行為が責められるのは、あくまでも負けた方が責められるのである。敗れた方が、戦争において残虐な行為は誰もが行っているというのは、そもそも間違いであり、誰もが行っていたとしても、その行為の責任を取らされるのは、敗れた方なのだ。大量破壊兵器や、非人道兵器も然りで、それによって勝者が被害を受けた場合、責任を問われるのは敗れた方だろう。それが戦争なのだ。戦争故に、常軌を逸した行動も生まれるのは、恐らく集団、社会の心理状態を想像すれば、非人間的な行為の異常性自体に気付かなくなるのだろう。それは、恐らく仕方ない事のように思う。ただ。戦争が終結して、我に返った時に、その異常性に気付くのだが、その異常性によって被害を被ったとしても、その責任を負うのは敗者のみというのも戦争の特徴だ。
冷静に考えれば、異常な行為のオンパレードであり、このような行為は、勝者、敗者関係なく、恨み、遺恨を残すのは間違い無いのだが、このような行為の責任の所在を考えると、その時代の、その体制こそが問題なのである。よって、紛争というのは、終結後に、その世代の当事者同士の条約等の約束事を決め合う事で終結させるべきものでもある。
その約束(条約)が結ばれれば、そこで初めて紛争状態、戦争状態は終結し、関係が正常化するのである。条約に明示された義務を果たす事が、過去の清算に相当するのだ。
戦後70年を迎えるにあたり、過去の体制主導により、様々な被害を与えた事は事実だが、一方で、国際ルールに則った戦後処理も確実に行って、その義務を果たした事も事実である。
日本による戦争被害を被った側への反省は必要なのは当然だが、それは国同士の戦後処理の約束によって義務を果たした事を告げる事も重要だ。そして、未来においては、約束事を約束事として守る関係が保てる国々と手を携えていくという宣言で締めくくるべきのように思う。まぁ、約束毎を反故するような体制とは、価値観を共有して手を組めないと言う事だが、、、
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