情報の見分け方
人が自信満々に話していたら、、、、つい、簡単に信じてしまう。
自分の認識とは異なる話、実際に遭遇する事は少なく無い。非常に多い。
認識と異なるというと、自分の知らない話、自分の知識による答えと正反対の話の二種類がある。
ただ、相手が、あまりにも自信満々だと、つい、自分の方を疑ってしまう。
しかし、、、、最近思うのは、仮に相手が自信満々であっても、自分の意見の方が正解であると言う事も結構多い、、、、。
聞いた話が明らかに正しい場合と正しくない場合があるけど、冷静に、どんな立場の誰が話し話が正しくて、誰が正しくないか?というのが、何となく見えてきたところ。
正しい話をしてくれる話し手、この場合、質問に対して理路整然と論理的に説明してくれる。そして、論理に破綻が無い。論理の例え話は、論理の原則に遡る。そして、言葉は悪いけど、99%、しっかりした知識を身に付けており、知識を身に付ける上で自然と備わった学位、学歴がある。
逆に、学歴偏重ではないけど、学位、学歴が明らかな人の話だと、99%信用出来る。
しかし、結果的に正しくない話をしてくる話し手の場合、質問に対して主観に基づいた感想で説明してくる。論理は存在しない。根拠は、曖昧すぎる。雑誌やメディアの伝聞が情報元だったり、聞いた話だったり、『業界の常識』という名の意味不明の自信だったりする。例え話で説明してくれる場合もあるけど、論理の原則とは異なる、一見似たような自然の現象を引っ張ってくる場合に留まる。知識レベルは付け焼き刃。変な自信はあるけど、知識を体系的に身に付けていない。当然、学位、学歴はない。逆に、コンプレックスというか、反骨の自信が強すぎる傾向。
ただ、冗長で長すぎる話をシンプルに纏めて冷静に考えると、有り得ない話が殆ど。99%信用出来ない。
話の裏を取る前には、前述のような条件で大まかな判断を行うけど、後にしっかりとした資料等を調べて裏取りすると、多くの場合、そのような条件判断と同じ判断結果となる。
ただ、正しくない情報の発信に、全て悪意があるとは限らない。故意による嘘の場合は言語道断だけど、勘違い、思い違い、思い込み、信じ込み、、、そういう場合も少なく無い。まぁ、論理を体形だてて理解する手順を身に付けていなければ、つい、信じてしまう事も当然有り得る話である。
このような正しくない情報の話し手の話が、故意によるものか否か?というと、その判断は非常に難しい。故意であることは、性善説に従うと殆ど無いかもしれないけど、非を認めない性格の場合、それを認識させたり、改めさせたりするのは殆ど不可能とも言える。
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