限定解除の異常性
昔の限定解除審査っていうのは、或る意味、異常状態だったのかもしれない。
当時の限定解除審査っていうのは、大型二輪を扱えたら、乗れたら審査に合格とはならなかったように思う。試験官は公務員であり受験者を合格させないといけないという義務感は無い。まぁ、そもそもの排気量による限定条件が設けられたのは大型車による死亡事故増加と暴走案件の増加を抑制するのが目的であり、免許取得を難しくするのが目的だから仕方ない。つまり、免許を取得させない制度というのが底流にあるのだ。
そんな経緯で生まれた二輪免許故に、限定解除審査というのは落とすための試験で、試験後の試験官からの一言で覚えているのは、『乗れただけではダメ。手本となれるように乗りこなせなければ合格しない』という一言。そのために、事前審査で落とされる人もいれば、足が付かないような低身長でもダメというのはザラであったのを覚えている。
これに対して、今の教習所による取得というのは、営利団体で受験者=お客様であり、免許を取らせるのが仕事。検定では如何に受からせるか?という視点となっている。つまり、乗りこなすなんて求めていない。取り敢えず、乗れればOKという視点である。
どっちが正しいか?というと、1996年以降の教習所で大型二輪免許が取得出来る現代の方が、免許とは?という定義を考えれば正しいように思える。
更に言えば、自動二輪免許に排気量による条件制度を設け、免許を取得させないのを基本としていた時代の施策というのは、国民の権利を無用に制限していたとも言える。極論すれば、免許制度がそうであった時代に、限定解除審査を受けたくとも受けることを諦めさせた人に対して賠償しても良いのでは?と思う程である。
最近、とある50代ライダーのホームページを見て、80年代当時に中型バイクに乗るも、限定解除審査の手間と難易性に取得を諦め二輪からおりたものの、40代、50代になってバイクに再び乗ろうと志した時には、憧れの二輪に乗るために教習所通いから始めて高額の大型バイクを買う事の経済的な難しさ、そして老いによる体力的な問題から、再び諦めようか?という心の揺れを訴えたサイトを見たけど、こういう思いをしているライダーは少なく無いように思うし、その一つの要因が、当時の非常に難しい免許制度だったように思う。
今の時代、思い立てば教習所で免許取得が適うけど、当時は?といえば、試験場で予約して月に数えるばかりの検定を受ける事を繰り返すというのは、社会生活を営む中で続けるには困難とも言えるもの。その面倒臭さ故に、免許取得さえ試みなかった人も少なく無かったもの。
正直、こういう制度にするならば、当時の中型免許取得者には、普通免許のように今の時代の750cc程度迄は容認するような免許に切り換えることも悪くないような、そんな気もする。
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