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2020年10月20日 (火)

畑賀峠規制の歴史

これ、70年代の後半に存在を知った道。80年代を通して単車で入り浸っていた。
1980年、ミニトレに乗って通過するのが楽しかった記憶がある。
ただ、その時代は、後のレプリカブームに湧いていた頃のように大量のライダーは居なかった。
多くの走り屋が集まり始めたのは1981~1982年頃からだ。この頃からFXとか初期型RZに乗ったライダーが攻めていたけど、自身はSuperHawkⅢで時折通うパターンである。
その後、バリバリ伝説が大流行し始めた1983年以降、1984年~1988年頃が峠に人が集まるピークを迎える事になる。

これによって峠は一気に走りにくくなっていく。規制が強化され始めたのは1986年頃からが本格的。

最初に規制の象徴が生まれたのは、ギャラリーヘアピンのアウト側の山側の空き地に大きな警告看板が立てられる。これ、『暴走で悔いを残すな君の青春!』という標語だ。
ただ、この看板は木製で、立てられて一ヶ月程度でヤンチャな連中に燃やされて焼失した筈だ。

この頃は、パトカーが定期的に巡回して見掛ける二輪車のナンバーを記録して、オーナーの元にハガキが届けられていた。内容は、『○月○日、安芸郡府中町甲越峠におけるあなたの運転についてお伺いしたい事がありますので、○○署に連絡下さい。連絡無き場合は、不利になる事があります。』的な内容だった筈だが、このハガキを受け取った人の誰も警察には行かなかったように記憶している。
その翌年くらいに設けられたのは、出雲大社下のコの字のコーナーの下の直線に、道路を跨ぐゲートが設けられ、そこに同じ文言の看板が立てられていた。因みに、この直線の入口で頻繁に速度計測によるねずみ取りが行われていた。

ただ、そういう取り締まりはライダーの数抑制に全く効果を発揮していなかった。

効果が生まれたのは、1990年代に入ってからのコーナーへのゼブラ舗装が施されてから。この舗装が為されてから二輪は一気に減少。しかし、頭文字D効果で、四輪のローリング族が大量に発生。その後、峠区間に合ったパーキングエリアが全部進入禁止になる。そして、峠区間では途中でのUターンが禁止されることになる。これによって、麓の高校からスタートして登坂車線でUターンという走りが出来なくなって、この峠は衰退することになる。

最近は、当時のゼブラ舗装も摩耗が進み、ゼブラの段々が殆ど気にならなくなっているので走るには何の問題も無い。稀に、二輪、四輪で通過する事もあるけど、1990年代以降の走りにくさを感じる事はない。ただ、最近は交通量が少なくないので、オールクリアで、、、って事は恐らく不可能。

もう通う事は無いだろうけど、当時、ココを走っていた愛機であるガンマは、未だに愛機である。

因みに、峠での転倒回数、RZ350Rでは1回、ガンマは400、500で1回ずつの合計2回、つまり合計3回。それ以外の単車ではゼロ。2ストでの転倒は全部ハイサイド。全部、ギャラリーコーナーの立ち上がり。吹っ飛んでからは車体が数回転がっていったのを良く覚えている。

今思えば、良くもまぁ、ガンガンに寝かせて、アクセルを開けまくっていたモノである。アホだな。

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