2013年6月 4日 (火)

ネットで、、、

娘の学校の宿題、、調べモノが宿題、、、で、方法としては、インターネットで検索して出力?
マジか?

検索ダイアログに調べたい言葉入れてリターン、、、そしたら、ズラズラ、、、、情報は簡単に取り出せる。
果たして、これって、宿題をした事になるのか?小学校の担任の出す宿題として適切なんだろうか?大いに疑問が残る。

言葉から思う印象を書き記し、それで、情報に辿り着くのに手間の掛かる書物を使って調べる。それがスジだと思うんだけどなぁ、、、

以前、会社の部下に課題を与えたら、課題自体を知恵袋検索して、、、、間違った解答、、、、こういう自分で考える力が無い大人を製造するだけのように思う。
実際、勤務先の上司、部下、同僚を見て、自分の意見、発案を生む事が出来ない奴ばかりだし、意見への同意と反対しか出来ない奴しかいない。経営者でも、模倣、パクリであって手法問わずで甘い汁だけ吸えれば何だってOK的だからなぁ、、、

そういう即答主義者に多いのが、プロセスを手間と誤解尺しての行動。語句の調査、課題の解答の検索、他人の真似、、、、こういう事ばかりだ。

簡単に取り出した情報なんて、正直価値無いと思うのは俺だけか?

最近は、スマホ、タブレット等の携帯端末で情報が何時でも何処でも簡単に取り出せる、、、、便利っちゃぁ便利だが、、、、

持論としては、知識の記憶というのは、手間を掛けたプロセスと一緒に映像記憶として残る印象があるので、苦労せず得た字面情報なんて簡単に消え失せるような気がするんだが、、、、

手段問わずで、答えさえ判れば良い的な価値観は、どうも受け容れがたい。少なくとも、自分はそういう価値観には染まらないようにしたい。

少なくとも、プロセスと手間は違うのだ。手間は省くべきだが、プロセスを省くのはNGである。まぁ、プロセスを手間と誤解尺するような奴は、プロセスを経てモノを生み出す感激を味わった事が無い奴、或いは、そういうプロセスを組み立てるために必要な知識自体の必要性を自覚していない奴、言ってみれば、知識が無い奴だとしか思えない。

そんなカスみたいな人間を作るような宿題の出し方は、、、、基本的には反対だ。

個人的には、儲かろうが何だろうが、真似と模倣でOKというようなのはNG。人間として存在価値は無いと思う。パクリ、真似、、、、全部ダメだ。ネットで調べてOK、質問自体を調べて解答検索なんて、、、、考えられない。効率主義という言葉で本質を失っているとしか思えないなぁ、、、

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2010年9月12日 (日)

特許書くのは、、、

 正直、色んな事を思い付くのは楽しいのだけど、これを特許に仕上げるのは結構面倒臭い。

 勤務先としての出願、個人としての出願、親族企業としての出願、取引先企業への知恵提供に伴う出願、、、、、色んなパターンで出願しているけど、考えてみると、定期的に出願しているような状態。

 特許というと、権利を抑えて商売に結びつけるというのが在るらしいけど、自分的にはそういう意識は全くない。

 思い付いたモノを自分で具体化する時に他の制約を受けたくないからという程度。それから、発想を具現化する時に、内容を欲する人に提供する事で、世の中に早く出してやりたいからという程度である。

 そりゃぁ、特許取得して、権利で左うちわというのを考えた事が無いというと嘘になるけど、それよりも、そういう色んなネタを収集出来るポジションに居て質素に生活する方が楽しそう。
 ネタがあれば何かを考える訳だけど、そのネタが見つけやすいポジションに居るのが理想だ。

 先端材料関係、自動分級技術、先行待機軸受、、、他にも幾つか存在するけど、困った問題が収集出来る場所に身を置くのが一番である。繰り返し同じ事をやったり、人の言いなりで動くのは嫌いだけど、誰も出来ない事をコツコツ取り組むのが好み。そういう意味で、特許を書くのは嫌いでは無いけど、何をネタにするか?が見つけやすい環境に身を置くのが一番大事だ。

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2010年9月 4日 (土)

二輪車の発明

 自転車にしろ、単車にしろ、在るモノを使うのは難しくない。

 しかし、、、、何気なく思ったのは、二輪車でバランスを取って走る事が出来る事を発見した人は凄いなぁ!って事。

 よくもまぁ、補助輪無しで走る事を発見したものである。キャスター、トレールを付けたのも凄いものだ。後から、キャスタートレールが自立に大きく作用する事を説明するのは簡単だけど、最初に考えた人は素晴らしい頭の持ち主だなぁ、、、、

 こういう事を見つける人がホントの天才なんだろう。

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2010年3月13日 (土)

情報の入手性と価値

 知りたがりで、言いたがりの人を見て思う事。それは、情報っていうのは無料では無いんだよ、、、、、って事だ。そして、簡単に手に入る情報っていうのは、何故手に入るか?っていうと、価値がないからというか、利用し辛いからなんである。

 ホントに有用で価値のある情報というのは、情報を欲する人に、どれだけピッタリ合っているか?であるのだ。人によって価値のある情報っていうのは、殆どの場合、無料で簡単には手に入らないのである。
 この記事を書く切っ掛けとなった奴がいる。そいつにとって情報の入手先は、人の話であったり、雑誌の記事だったりする。彼にとっての情報とは、その程度の内容らしい。しかし、簡単に誰にでも入手できる情報なんて、それなりだ。

 大事なのは、情報の質みたいなもんである。そして、情報の価値って言うのは、知見を得たと思った人にしか判らない。何かのコツ、知見を得た当人っていうのは、その苦労を知っているから、メリット無しでは他人に明かさないのが普通である。苦労して手に入れたモノ、コツを他人にオープンに伝えるなんて、普通は考えられない。なお、情報の事を調べて得た文言という認識の奴は論外だ。情報というよりも、自分の体験で得た知見といった方が良いかも知れない。知見や知識とは会得した情報の事。会得しない情報の伝達は何の価値も無いのだ。
 実際、別の喩え(例えば、試験前に問題を絶対に解けるコツを掴んだら、他人に教える?って尋ねると)をして、そいつに自分で苦労した秘訣を人に教えるか?って聞いたら、教えない(自分で見付けた事は教えないんだって、、、、)だろうって事。人には聞きたく、他人には大事な部分は教えない。そんな都合良い話は無いのだ。人に伝える話は、自分が苦労していない話。そして、その話で人から凄いと思われたいんだそうだ。意味が分かんない。

 そういう訳で、知見をオープンにする、苦労を厭わずに伝える、そういう場合には、そうする事によって、何かを得る事が無いとだめだ。
 塾の講師をしながら、モノを教える。教え方次第で生徒の飲み込みは違う。生徒に理解させるように教えるけど、誰にでも教える訳ではない。自分の生徒や自分の子供には教えるけど、普通は黙っている。そういうもんだ。

 俺的には、教えろ!って言う奴はバカ以外の何ものでも無いのだが、存在自体が有り得ないのである。教えてメリットを感じる事が出来ないと判断したら、何がどうなっても教える事は無いのである。
 勿論、利害関係が無くても、教える事で、素直に喜ばれ、教えた事の有り難みを判る奴になら、趣味の世界なら教える事はあるけど、そういう奴は、教えろ!口調ではやって来ない。教えろ!口調で来る奴の多くは、知りたがりの言いたがりであり、そういう奴には、仮に教えたとすれば、それを知った顔して他人に偉そうに言うものである。なんで、アホな奴を第三者から凄いと思わせるのに話を伝える必要があろうか?更には、何故に理解不十分な奴を介して劣化する情報を第三者以降に伝える手助けをする必要があろうか?そういう光景を目に浮かぶと、、、、正直、嫌悪感が走る。すると、、、、やっぱり、教えれない。そんなモンである。教えるだけ損するというか、バカを見るだけだ。

 逆に、そういう好奇の下心が見えると、敢えて反対に誘導してやろうかな?なんて、悪戯心を持つ事もある。そういう誘導して遊ぶ事もある。自在に思う方向に思わせる事が出来るけど、これは、自分じゃ、性格悪いというのでなく、ホントに知りたい事を知ったり、得たい情報を得るには、それなりの苦労と経費や代償を支払わないとダメなんだよ!と思わせているだけなのだ。
 因みに、本人には、その旨は伝えている。そして、時間の流れの中で苦労に見合う対価を支払ったり、本人さんの我を通す事で買い物で失敗したなって思えたりした時に、答えの一部を説明するようにしている。
 そもそも、人に苦労して得たモノを教えるのは嫌いでないけど、こんな奴のように、対象によっては、教えて後悔することもあるわけで、そう言う奴には絶対教えない。だから、教えて欲しければ、後悔したと思わせないような人格になってからね!ってダイレクトに通告する。そういうモノなのである。

 そこで、なんで教えてくれなかったか?っていうと、人間的にまだまだと思う。そうやって苦労した事を感謝するような境地になって初めて次がある。

 古い話だけど、昔々、テレビ番組で「クレクレタコラ」ってのが在ったけど、そういうのを思い出す事もある。「クレクレタコラ」でググルと何か?は直ぐ出てくる。

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2009年9月 3日 (木)

久々に研修だ

 9月から年末に掛けて、久々に研修に出席する。
 研修とか講習は、学生時代から入社間もない時代に集中しており、ここ十年程は出席する事自体がなかったのだが、ほんと十年以上ぶりで久々である。

 ここ十年程度の活動では、殆どが未体験の分野の活動であったけど、そのために知識を人から聞いて仕入れる活動は行わず、必要に応じて適当に文献を購入して済ませてきたのだが、今回は久々である。

 今回、参加する研修の分野は、自分にとって未知か?っていうと、そうではないし、あえて聞く必要があるか?というと、寧ろ不要かな?とも思うのだが、ここ十数年の先端材料関連の知識が殆ど独学であり、先端材料に限らず、様々な材料を統一的に扱う上で、一応は、それ系の専門家の視点とか、評価法等々の標準的なモノが何か?を知っておくのは悪くないかな?と思ったからだ。

 実際、自分で理解したつもりの概念が一般概念と違えば、それはそれで問題だし、この世界で他の専門家と対峙する時は、概念的にスタンダードなモノを知っておくのは結構重要だと考えたからだ。

 因みに、自身はプログラミング等のソフトウェア開発から、機械、装置類の設計、製作、製造迄一通りは理解しているつもりだが、本来の知識土壌っていうのは、材料、物質関連の評価だ。
 社会人になる迄は、有機材料~有機物関連の物性、評価等が専門で、その後が、セラミックスを中心とした無機材料、それからサーメット系、最近は鉄系、非鉄系金属材料の評価、製造法、方案迄携わり、先端材料では、物性評価、装置設計、用途開発が中心、一般材料では品質、方案、工程といった実務技法が中心で行ってきて、直近では、最近流行?の複合材料の高機能化、用途開発を主に行ってきたけど、振り返ってみれば、ありとあらゆる材料を専門的に扱ってきたのだが、その分野全般に通用する一般概念、常識を今一度知る事で、これまでの知識の修正を行いたいというのが、今回研修に参加する理由である。

 そんな訳で一応、JSME監修のテキストを早速購入して一読したんだが、取り敢えず、書いてある事は理解出来るし、研修自体に出席して落ち零れる事は無さそう。

 ところで、此処までの人生を振り返ると、専門性っていう面で身に付いたのは、殆ど全てが材料関連だ。セラミックス、サーメット、金属、有機、無機、複合材料、、、、処理的にも殆どの処理が行えるし、その特性も概論的には全て把握している。そんな訳だが、過去を振り返ってみると、この道を意識したのは、高校二年の頃。1982年の頃だ。

 1982年当時、意識があったのは京セラって会社。京セラでファインセラミックスを開発したいというのが高校生の自分の願いだった。で、曲折を経て進学した大学の専攻は工業材料を科目として持つ学科だったのを思い出す。
 趣味としては、自転車、単車だったけど、進路としては材料に関心を持っていたのを思い出す。

 そして、30年近く立った今だが、実際に、機械関連の製造業に居ても、業務の半分以上を材料開発に割いている。実際、取得、申請している特許の殆どが材料関連。
 思えば、自分の考えは30年間ぶれていないのである。このぶれないというのが、性格的なしつこさ、諄さから来ているんだろうと思ったりする。それ故に、この世界の関心を未だに持って、今更のように研修に参加しよう!って気分になるんだろう。

 他人がどうかは知らないが、自分の意識としては大事なのは、ぶれない意志ということ。それは、小さな事から大きな事迄、趣味から仕事、家事、育児迄、、、、全てにフラフラしない事。他人に翻弄されない気持ちがやっぱり生きる上で一番大事だと思う。

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2009年7月18日 (土)

想定内です。

 総選挙である。総選挙といえば、小泉郵政劇場、そこでの象徴がホリエモン、ホリエモンの放った言葉で印象的なのが、表題の『想定内』って言葉。

 想定内、、、、これは、大事な事である。何かを考える時に自分の立場、リソースを踏まえた予測、未来が的中するということ。自身、これが物事を進める上での楽しさの原動力ではないか?と考えている。

 振り返ってみると、自分で続けているモノ。行ってきたモノっていうのは、表題の想定内なモノばかりである。予測が的中するから面白い。楽しさの理由は、思い通りに物事が運ぶからである。

 例えば、ダイエット、、、、、三ヶ月で20kgの減量を目標に掲げた。理由は、出来ると踏んだから。一ヶ月で7kg減量でOKなのだ。一週間で2kg程度、2kgというと14000kcalのエネルギー消費って事。つまり一日で2000kcal消費でOKなのだ。そこで組んだメニューがスイムで毎日1000kcal、サーキット筋トレ+筋トレで1000kcalというメニュー。そして、実践した。
 すると、計算通りに減量できた。それ故に、面白い、、、完璧なのだ。

 そういえば、材料開発でもそうだ。これとこれを混ぜて加熱する。すると生成自由エネルギーから出来るモノ、出来ないモノは何?って大方予想が付く。それで、定めたモノが出来たら嬉しい、、出来なかったら悲しい。そして出来たモノを特許にする。そんな感じ。
 最近は、先行待機ポンプ用の摺動システムの開発も特許申請したけど、これとて同じである。破壊のメカニズムを解明し、それに対する対応策を脳内シミュレート、それで試作、検証、予定通り、、、これが完璧となる。

 単車ツーリングで先頭走る理由も然り。飛び込んでくる情報を処理して、自分の走りのイメージができる。それが視界の中に仮想的な前走者として自分が浮かび上がる。それに実態を重ね合わせる感覚。それが出来る事で喜びを感じる。
単車のカスタムでも然りだ。つまりは、狙いをイメージしてデザインする。そしてデザイン通りに具現化出来た時、喜びに繋がるのだ。

 最近なら自転車も然り、効率よく走る、楽して走る。或いは、自分なりの限界で走る。これは全て、自分のリソース、自分の機材、自分の居るステージ、それを考慮して、これなら出来るってイメージが湧き上がる。これを具現化出来るかどうか?が楽しいかどうか?の分かれ目。今、自転車の技量的な部分、或いは、走行能力的なアウトプットの部分で楽しいと感じているのは、自分の想定通りに事が運ぶからである。

 やってみなければ分からない、、、、そういう世界は嫌い。そして、他人をターゲットに掲げるのも嫌い。エライとかバカというのは、自分の読みに対して勝る時に自分はエライなぁ!と喜んだり、自分の読みに届かなかった時に情けないと感じるだけ。勿論、単車や自転車で速いとか遅いとかの議論も然り。速い!って思うのは、自分のリソース、機材から想定以上となったときに自己満足的に速いという判定するだけなのだ。

 他にもパソコンのトラブル解決でも同じ。問題が見抜けるから楽しいし、プログラミングでもそう。デバッグ行為なんてモロそんな感じ。スイムで3000mを50分も然りだ。1mを1秒、50mを50秒、1ストロークを4秒、12~13ストロークで50m狙い、そうすると50mを50秒で進む。1ストロークで4秒、そして4メートル進むには、プルで幾ら?キックで幾ら?を想定しながら泳いでいる。それを実践して狙いのタイムが出るから楽しいのである。

 楽しさの理由、、、それは、イマジネーションを具現化出来るかどうか?次第なのだ。イマジネーションとは、自分の具現化できる理想である。つまり、実現可能な理想が描ける分野に楽しさを求めているのだ。それが想定内!って事になるのである。

 以前、記事で他人見て遅!って揶揄した事があるけど、それは、絡んできた人に対する分析の結果である。分析というのは自分の価値観(方法論)で、自分に見合う能力を出すには、何がどれだけ必要?っていうのは、当然理解している。それがターゲットに備わっているか?を見て判断するのである。その判断の結果、『オマエ、無駄だから辞めておけ、、、、』って判定になるのだ。そういう時に揶揄する感情を持つに過ぎないのである。
 これは、仕事や研究でも一緒。あるレベルを実現するに必要なスキルや経験、実力は当然あるはずだが、仮に誰かが挑んできた時には、レベルに必要な資源が相手にあるか?を冷静に分析するだけなのである。

 思うに、他人の模倣とか、他人の追走ばかりする人、或いは、挑発的な行為に進む人っていうのは、己のリソースから具体的な事象を作り出す事の出来ない人かな?って思う事が多い。自分の判断に自分の物差しを持たない人。こういう人は、案外、脆く、弱く、長続きしない。そんな気もする。

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2009年7月 3日 (金)

理想と願望

 サイトに訪れてこられるお客さんの検索ワードでは、理想の体型とか、理想のペダリングとか、速くなりたいとか、、、、そういうのが多い。

 ここでいう理想っていうのは、もしかしたら願望とか夢を言っているのでは?という気がする今日この頃である。

 思うに、理想というのは、頭の中ではイメージ出来ており、そのイメージに必要なアイテムが判っている目標で、願望っていうのは、漠然としたイメージで、イメージが抽象的過ぎて具現化に必要なアイテムが特定出来ない状態ではないか?と感じる。

 理想とは、理に適ったモノ。願望というのは、根拠の乏しい夢みたいなモノ。そんな風に区別できるだろう。

 理想は追い求めれば適うけど、願望とは夢で終わる事も少なくない。何事にも関して言える事。夢が叶う人の夢とは理想であり目標に突き進むから適う。夢が叶わない人の夢とは、他人への憧れとか、根拠の無い欲望であり、ただ願うだけだから夢が適わない。

 そんな風に捉える事ができる。

 理想とは、理に適っている事からなる完成形の事。つまり、理想を叶えるには、必要な正しい論理を組み立てる事が大事。論理に必要なのは、基礎知識と問題解決の手法。そういう風に言える。

 体系だった世界で満足を得る。スポーツとか学問では、基礎知識が必須で、問題解決の手法が必須となる。考えてみれば当然である。知識や手法を知らない人、軽んじる人が成果を出せないのは、ある意味、当然なのだ。

 理想の、、、、、を言うならば、願望を語る前に、必要な教養とか知識を身に付けるという原点に立ち返る必要があるのではないだろうか?

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2009年7月 2日 (木)

目的意識

 先日、コメントを頂いた方と多くの部分で意見が共有できると感じた事。

 それが、表題の『目的意識』である。

 目的意識とは、現状の問題を自己認識しているのである。詰まり、自分の現状把握が出来ているということ。そして、目的が持てるのは、その現状問題の因果関係を類推しているということなのだ。

 つまり、目的意識=現状認識=問題の類推=因果関係の把握という方程式が成り立つのだ。

 これは、真実を追究する世界では共通した考えである。その世界における真実は絶対的に一つなのだ。要するに、競技における一等賞であったり、優勝、世界記録、最もエライとか、ノーベル賞、、、、、というように価値観の方向性は同じ方向に向いて優劣が語られている。

 真実の追究に終わりは無いが、その方向性は一つであり、その優劣を極めるのが競技であり、学問、研究なのだ。

 その優劣を競う上での闘いはどうやって生まれるか?というと、方向性こそは一つだが、その一つの方向性で優れた結果を出すには、それを支える要素に何を選ぶか?が異なってくるからである。
 例えば、数学の問題を代数的に解く人、幾何学的に解く人の違いだったり、自転車でトルク重視で漕ぐ人、回転重視で漕ぐ人の違いだったりするのである。

 その選ぶ要素の組み合わせが人の個性であり、違いなのだ。ただ、どっちが正しいという質のモノとは異なり、違うだけの話なのだ。そして、その違いは個人の目的意識で選んだ要素の組み合わせによって決まるものである。

 ただ、スポーツや学問が自然科学のルールに則ると言われる所以は、結果を得る要素の選択は自由だが、選んだ要素における優劣、真偽は自然科学に則っているという真理があるからだ。
 多くの素人や、横着系の人が、自分の考えとか、自分なりという言葉で好き勝手をやるが、要素の選択に自由度は有っても、その要素毎の考え方が支離滅裂の場合が多く、そういう考えになる時点で、その人なりの上達の可能性は壊滅的にゼロになるとも言える。

 上達というのは、選択の自由、選択したモノの真理に従う。その真理を学ぶという謙虚さと、無知を認識して知識を積み上げるという前提が無ければもたらされないのである。その積み重ねの先が、行動において必要な本当の意味での目的意識を持つ事につながるのである。

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2009年6月15日 (月)

どこにも書いてない事

 単車、自転車、共に好きである。
 どっちも移動の手段だが、移動の過程で求めるモノが決まっている。単車の場合、未知のワインディングを自在に可能な限り速く走り抜ける事。自転車の場合、持てる体力を可能な限り出力に換えて遠くに行く事。それが、一番の目的で、そのためだけに接している。

 シンプルに言えば、どっちの乗り物も速くということで、同じ趣味を持つ人と同じ方向を向いている。そのために、することは何か?となると、多くの人と同様に、色んな情報を収集する。試す。聞く。習う。盗む。情報の品質も重要だが、量も重要ということで、多くの人同様に色んな事を試してきたように思う。

 しかし、そういう調査とか情報収集では限界があるのも事実。

 自分の理想に近づくには、理想とは何か?理想を選るには何が必要か?仮に、どうすれば理想を具現化するモノが感じれるか?といった、或る意味、数学的な仮定立案と証明的な活動が必要なのである。

 この問題を解決する手法というのは、実は、人生において遭遇する様々な問題への取り組み方と同じモノで、その手法というのは、実は教育課程において身に付くモノなのである。小学校教育では目に入る情報を紹介し、何故?何?の気持ちを植え付ける。中学校では、それらを体系立てて、分野ごとに最も単純な手法で問題に到る手法を身に付けさせる。高校では、仮定証明の方法のパターンを教え、大学教育では、正解が定まっていない分野で、身に付けた問題探求の手法を実践させることが目的なのである。
 この問題を解明するというのは、数学に限らず、語学、自然科学、法律、歴史、、、といった様々な分野に通用するものなのだ。

 未知の問題を無闇に試行錯誤しても答えには辿り着かない。答えに到達するには、近道を選ぶ方法論に従うのが最良であり、その方法論こそが、成長過程において学ぶべき事柄なのである。勿論、このような事は字面だけで答えを得る筈もない。実践、評価がセットであるのは言うまでもない。必要なのは、理想と理想を実現するための仮定、仮定を証明するための実践と評価の繰り返しである。その先に、その人なりの理想の答えがあると信じている。

 その答えっていうのは、人によって異なる理想毎に違う答えが、探している人にもたらされるのである。

 例えば単車で見知らぬ峠で自在に走る。咄嗟の判断で対応できる。そんな能力に必要なのは何か?それを考えて、それを得るためには何か?それを得るには、何が出来ないといけないか?それをするには道理に従うと、どんな乗り方がベストか?その乗り方を極端な形で身に付けるにはどんなトライが必要か?
 これをモデルに置いて、これを実践し試行錯誤した結果得たモノ。こういうモノを自分の中に確立している。この仮定が何で、それを実践するには、どうすればよいか?というのは、或る意味、人生の集大成みたいなものであり、それは唯一の守るべきモノ。

 自転車でも同じである。持てる体力を最高効率で出力に換えて、最も遠くへ、最も速く走るには?何が必要か?何を省くか?それを体感するには、各部をどう仕上げるか?調整するか?それが出来たら、どう感じて、それが出来なかったら、どう感じるか?という風に、仮定を立てて仮定を実証するにはどうするか?を考えて自分なりに掴んだコツというものがある。これは単車での自信を持てる乗り方と同様に、自転車でも自分のスタイルという形で大事にしているモノなのだ。

 このようなモノは、人によって異なるモノ。何故ならば、求める理想が違うから。それ故に、一般論とは為り得ないので、文書にもネットにも公になっていない(突き詰める人が誰も明らかにしていない)モノなのだ。
 これこそが、単車や自転車に乗った時の自分の武器になるのである。そうやって見渡すと、誰一人、その勘所を記載している例が無い。そういえば、工学図書にも理解のコツみたいな事は何も書いてない。事実のみ淡々と記述しているだけ。結局は、掴んだ事は誰も人に明かしていないのである。勿論、自分も人には絶対に明かさない。

 そうやって掴んだモノが自分の中で自信になり、確信として持てるようになるには、やはり、自分の知識レベルを高め、少なくとも自分の知識の範囲で論理的な破綻を来さず、信じれる道理に従っていなければ有り得ないし、自分の知識に自信が持てるように、知らない事を知らないで放置させない知的探求心も必要である。それだけでなく、そうやって信じた通りを実感として納得しなければならないし、納得に到るまで、物事を感じ取る事が出来るようになるまでの実践を積み重ねていなければ砂上の楼閣の如きの自信に留まるのである。

 単車で言えば、200台を越える台数を乗って、月に3000km走行という生活を10年以上過ごして得た結果だし、自転車ならば自分だけの力で何処まで行けるか?どれだけ走れるか?をターゲットに競技生活を含めて5年以上取り組んできた自負があるからである。
 勿論、自身の状況で納得しているのは、二輪車を扱うに必要な筋力、心肺機能といった部分を維持する生活を人生の8割方の期間において継続し続けているという自負があっての話だ。

 多分、天才とかセンスがあるって人は、そのような事を直感というか、繊細に感じる神経が発達して答えに最短で辿り着ける能力を持っているのだろう。

 天才とは程遠い自分の場合、単車でそれに気付くのに5年は要したし、自転車でも同じくらいの期間を要した。過去を振り返ってみると、自転車の競技を諦めたのは、当時、大腿骨の粉砕骨折という怪我に見舞われたから。当時、膝の関節は曲がらないと宣告されたのを覚えている。それで単車一本となったのだが、それから20年のタイムスリップを経て身体機能も事故以前の健常者と同じ状態に戻っている今、当時の掴んだ考えがそのまま通用する。それが判っただけでも、当時の考えが自分なりの自信に見合うと思えて嬉しいモノである。そうやって掴んだものはやはり大事にしたいものだ。

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2008年7月30日 (水)

社長への道!?

 ということで、これが新しい日記というか長期プランでの思い付きを記録する親記事となる。
 思い起こせば、以前にも書いたけど、自分は大学時代を中心に塾講師のアルバイトから始まり、塾経営にまで嵌り込んだ過去を持っている。そこで感じたのは、自分で好き勝手にやることの楽しさである。
 で、最近はどうか?というと、中堅企業に就職してはいるものの、入社以来今迄に直属且つ実務的な上司っていうのが存在しない状態で過ごしてきている。仕事は命令で受けた事が無いのである。仕事というか?何というか不明だが、殆どが経営者の願いとか不満とか、そう言う戯れ言ばかり聞いてきて、それを何とかしたいという要望が命令と言えば命令となっている。爺さんの願いを具現化するってのが仕事って言えば仕事のようなモノだ。

 それ故に、行う事は二度と同じ事が無く、常に未知の領域で、その答えの道筋が見えないという課題が相手であり、経営者から効いた時点では超抽象的な話ばかりなのである。その抽象論を現実の手法に展開し、必要な技術の調査、開発、組織の改善、運用っていうのは、その都度、最適と思われる方法を選んで、時には自分で行ったり、時には他人にやらせたりで過ごしてきた。その案件というと、殆どが、ルーティーンとは懸け離れた問題ばかりであり、そういう過去の人間が対処不可能な事のみを専門に手掛けてきた状態である。
 その中に、技術計算プログラムであるとか、データ計装システム、スケジューリングシステム、データベースの構築、技術データの運用体制の構築から、設計手法の確立、材料開発、現業部門の作業法案の改善等々、特許取得、関連企業への技術指導、或いは、コンサルタント業務等を行ってきた。

 しかし、そういう事は企業に留まって給与を貰ってやるという労力と報酬の収支を考えると不均衡気味か?という思いが募っているのが今である。そういう状況と過去の自身での経営経験を照らし合わせると、昔の方がやる気が湧いてきたっていうのも確かにある訳だ。
 別に今の状態に不満を持っている訳でないが、なんか、物事の進め方や、決断の仕方が前時代的で、多くの人が金や名誉、体裁に翻弄されている状況に見えるのが、生理的に受け付けないのがホンネだ。

 但し、そんな決断だけで行動を起こすのも、自分の周りの環境を考えると影響が大きかったりする訳で、少なくとも、生活レベルを今の次元を保つ準備だけは整えておかなければならないと思うのである。十代、二十代で独りならば飛び出すのも簡単だが、三十路、不惑と歳を重ねると、色んな状況に保険を掛けておかないと駄目である。

 という事で、下のような手順で準備を進めており、決断のタイミングというと、最低レベルで前年度の8割程度の年収は確保する。ってことか?

1.申告等手続きが面倒臭い事にならないような形で起業させる。(完了)
2.起業した事業体に飯のネタとなる特異な技術や特許を集積させる。(一部完了)
3.開発技術を複数の外注先で工程別の分散調達体制を構築する。(一部完了)
4.開発技術のユーザーが安定的な組織となるようなネットワークを作る。(進行中)
5.新しい技術が普及期となって収益性で評価する。
6.必要なら、応じた技術を更に集積する。ネタの複数開発も実施。
7.趣味で塾経営も併設する。

って感じ。こんな事を考えながら、何をネタに活動するか?或いは、転機となる出来事が起こったか?心の変化があったか?を不定期にコメントで追記する日記としてみようと思う。

 やはり、自分の判断で自分で行動して、損も得も自分の責任で自分で取るという形で生きるのが望ましい。となると、最終的には経営者にならなければ自分は満足できそうに無いというのが実感としてあるところ。ホント言えば、今すぐ勝負!って行きたいけど、歳を取ると柵が多く、この周囲の説得には先の7段階のプロセスを以て結果を示して行かないと駄目だろう。

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