2015年12月15日 (火)

学校のいじめ問題、会社での出社拒否問題

 一方は、学校や教師の管理責任不行き届きが問題視されているが、会社での『心の病』問題では、個人の生き方指導で問題を解決しようとしており、個人に問題点があるような感じで報じられている。
 しかし、、、、いずれも、組織からのストレスが原因による心の不調であることには変わりがない。言ってみれば、組織の問題だ。組織の個人が組織で不快を訴える原因は二通り、一つは、個人同士の相性、好き嫌いに起因するもの。もう一つは、組織からの負担に起因するもの。前者の問題は、個人同士の喧嘩や口論であり、本来は周りがとやかく言う問題ではない。個人同士で解決すれば良い問題。しかし、もう一つの組織体制に原因がある場合は違う。組織体制の中での不協和は、嫉妬、妬み、干渉、押し付け、転嫁が原因。その最大の理由は、組織の運営側からの不公平が最大の原因。不公平が嫉妬、妬み、責任転嫁、押し付けを生んでいるのだ。

 学校でも企業でも、所詮は個人が組織運営、人事権を行使しているが、その個人が平等性に最大限の配慮をすればよいが、それが為されていないのが問題の最大の原因。

 この度の、企業におけるストレスチェック制度の義務化、、、組織に問題点がある事を前提とした企業体制チェック制度に改めた方が良いような気がする。

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2015年12月13日 (日)

ストレスチェック制度義務化

12月から心の状態を調べる『ストレスチェック』が従業員50人以上の事業所で義務化されるという。チェックの個別結果は事業所には知らせず、統計的結果のみ事業所に知らせるという。そして、個人には同意があれば専門医への診療を斡旋するというもの。
因みに、仕事上のストレスでうつ病等の『心の病』となって労災認定された人は2014年度で497人で過去最多だったそうだ。

ストレスを受けて心の病になる、なる程である。しかし、心の病に陥ったものが、うつ病のような状態に全てが陥るか?というと、そうではない。

心の病に至るようなストレスを受けた結果、どうなるか?というと、心が先に壊れたら心の病に陥るし、心の前に身体が先に壊れたら、典型的な中年状態を経て重度な生活習慣病+合併症という身体の病に陥る。
どっちも、先のチェック項目にあるストレスが原因だろう。

逆に言えば、健康に害を来さないような状況を維持している人を捜した方が、企業の健全性評価が正確に出来る。年齢を感じさせない身体、体力を保持している人が何人居るか?こそが大事で、全従業員から、そういう人を引いた数が、心の健康を害した人ということになるだろう。今回のストレスチェックというのは、ストレスが心の健康を害した状態に至るという特定部分の抽出に過ぎない。ストレスが身体の健康を害したという状態がカウントされていない。

しかし、同世代を見回すと、、、、、多忙と重責によって時間が奪われて身体の健康に害を抱える人のなんと多い事か、、、、、生活習慣病という自覚症状の無い状態から、重度合併症に移行しそうな人の多さ、或いは、中高年の癌、糖尿病、痛風、、、、これらの根源は、健康維持に必要な生活活動が行えなかった結果、いや、追い込まれた結果の結末である。

成長期の子供が一日数時間の運動で元気な生活を続けているということは、成長期以降の大人でも一日数時間の身体を動かす活動時間、脳をリフレッシュする余暇時間が必要なのだ。それが確保出来ないといのは、ストレスを心ではなく体に溜め込んでいるだけなんだがなぁ、、、、ストレスを心にも体にも溜めないためには、心を解き放つ時間が必要で、身体が活力を保つための活動時間が必要なのだ。

厚生労働省の役人は、こういうストレスチェックシートを作る前に、今の国民の現状に至る結末の因果関係をもっと見極めて実効性のあるチェック体制を作り出すべきである。
今回のストレスチェック制度というのは、形式だけの制度にしか見えないというのが個人的な感想だ。このストレスチェック制度による調査結果と、健康診断結果、それから個々の勤務スタイルを総合的に評価しなければ企業における雇用実態を従業員のストレス負荷状態の把握は困難なものと言える。

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2012年10月 6日 (土)

先日、昔の部下を久々に見た。

 自分より5、6歳若い筈だけど、、、どうも活力に欠ける。

 チョット肥えた?それとも、チョット髪の毛が薄くなった?

 聞くと、、、色々とストレスがあるそうで、、、、気の毒っちゃぁ、気の毒、、、、忙しい?それとも、使命感?、或いは、信頼関係?良く判らない、、、、

 ただ、昨日までの記事にも掲載しているように、ストレス溜めるなら、ストレス発散が重要。

 主婦の育児ストレス解消に、元気良く踊る、、、というのがEテレで紹介されていたけど、恐らく、主婦が家事の合間に踊る時間なんて分単位、、、ならば、自分みたいに時間単位で身体を動かせばストレスなんて溜まらないような気もする。

 ストレス溜めて、肥えて、薄毛に為る前に、、、、、趣味を多彩にアクティブに、、、そして、元気良く運動すれば良いのに、、、、、

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2012年2月13日 (月)

ストレスフリーの秘訣

 日常生活では身体からの情報を色々と感じる事が出来る。
 例えば、睡眠不足で睡魔、、、、過労で疲労、、、、故障で痛み、、、

 そんな身体からの注意信号というか警告信号だけど、場合によってはケロッと忘れて感じなくなる事がある。

そう言えば、単車でのレース中に転倒で負傷しても、転けてゴールするまでは痛みを忘れているとか、、、、そういう経験を思い出すけど、日常生活の警告信号も、ふとした事で消える事が少なくない。

 睡眠不足で眠たい時でも、、、プールに行ったら目が覚める。昼休みになると目が冴える。

 なんか怠い、、、会議がしんどい、、、、それでも、自分の好きな事を始めると急に元気になる。

 そんな事、ザラだ。

 気合いが入らない時は、時間が経たない。しかし、そんな時、別の事を考えると、、、アッという間に時間が過ぎる。そんな時、痛みや不調は一気に忘れる。

 そんな時、ストレスなんて感じない。

 まぁ、或る意味、嫌な事から逃げているに過ぎないかもしれないけど、逆に言えば、逃げ場を作って日常を生きる。程々にサボル。適当に逃避する。身体に逃げられなくても、意識や精神は逃げる、、、こういう生き方がストレスフリーの秘訣かも知れない。

 気分的な不調を抱え続けるとストレスになる。そんな不調を追っ払うには、、、、意識の集中を行う。意識の集中は自分の好きな事なんでも良いだろう。

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2011年6月23日 (木)

高温多湿

 夏至の本日、朝っぱらから不快指数が高そう、、、、気温、湿度、、、この攻撃で意識朦朧、、、、やばそ、、、、。

 案の定、血圧測定を行うと最初は収縮期血圧が100程度、拡張期血圧が50程度、、、、瞼が重く、脳が痺れる感じ、、、四肢の動作すべてが面倒臭い。

 この高温多湿って環境、人間の活動度を強制的に低下させるようだ。

 ところで、仕事場の環境っていうのは職種によって様々である。コンピューター端末を操作する職場では、冷房病が心配になる程、低温低湿な環境だったりする。現業でも、データー収集等のコンピューターや計測機器を集中稼働させる場所も同様である。
 しかし、それとは無縁の職場も数多くある。組み立てや機械加工の工場内では作業空間が広すぎて空調という概念が存在せず、精々スポットクーラーや冷風ダクトに限られたりする。まぁ、それでもマシな方で、塗装作業や鋳造作業の職場では、作業環境の厳しさは、その比ではない。長袖、ゴーグル、マスク、、、、このようなモノが必須な上に、服装の制限も比較出来るモンでもないのだ。

 そういう職場環境の悪い職場を3K職場なんて表現で表される事も少なくないけど、そういう職場っていうのは、そこで作業が行える事自体が特殊能力といっても差し支えない。現代のコンピューターや計測機器を扱う職場の人間は、3K職場では全く耐える事が出来ないだろう。

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2011年2月20日 (日)

こころ

 心っていうか、気持ちというか、意欲という質のモノ。これは結構大事である。
 趣味にしろ、技術論にしろ、何かを人に伝える時、相手を見てから伝えるかどうか?を判断する。相手の知識が云々ではない。何処を見るか?というと、、、、心というか意欲というか、そういう部分。

 腹を割って話すと、何か自分の気持ちの中でスイッチが入ったり入らなかったりする。そのスイッチの入るかどうか?っていうのは、純粋に相手に心、意欲があるか?という点で判断する。

 聞く準備をしていないとか、聞きに来た意識に意欲が伴っていないとか、楽して何かを手に入れたいとか、、、、、そういうのは、一発で見破る事が出来る。そうなると、、、、分野、ジャンル問わず、聞き手が上司、部下、経営者に関わらず、何にも教えないし、話したくなくなる。

 自分の場合、人を判断するのは簡単には判断しないけど、コイツは聞く心を持っていない奴とか、聞くに相応しい準備をしていない奴と烙印を押したら、一生、其奴には何にも話さないようになってしまう。これは、自分でも欠点だと思うけど、性格だから仕方ないのだ。

 今、新しい技術の話を同業他社には、対面ならば何の隠し事も無しでフルオープンで話をしているが、これは、相手の心を受け入れているから。もっと言えば、生意気だけど、聞く準備をしていると認めたからである。意思、意欲を感じ、それに見合った準備をしてきているからだ。

 しかし、この技術、社内の設計部門のトップが見せろと言って来た時には、実は断ったのだ。理由、、、、、コイツの意思を感じなかったから。来た理由、、、、それは、経営者に言われたから来たという程度のお遣いレベルの意思しか感じなかったから。そう、身内だろうが何だろうが、ダメなモノは駄目なのだ。

 話をするかどうか?それは、聞き手に心や意思、意欲があるか?礼儀があるか?という点次第なのである。エライとかバカではなく、聞く意欲があるか?それを知るために、その人なりの努力やトライをしてきたか?が大事なのだ。各人毎の行動の蓄積の度合が、言ってみれば、礼儀にも相当するのである。何にもせず、楽して答えを知りたいっていうのは、言ってみれば礼儀知らずである。そういう奴は、正直、、、、合わない。

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2010年8月28日 (土)

一番の財産は?

 会社勤めを初めて20年近くが経過し、日本人の平均年齢の半分を超えてきた。サラリーマンの定年までの年数にしろ、寿命にしろ半分を過ぎているのが今である。

 考えてみれば、もう若くはないのだ。ということで、過去を振り返ってみた。

 ここ数年で一番変化したモノ。得たモノで一番大きなモノ。それは何か?

 それは、、、、、ここ数年のアドバイス中心の楽な仕事で生まれた余力と、その物理的な余裕を自分の体調管理に費やす事で得た疾病状態から快復した健康な身体である。

 それは、

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2009/11/2009-cac5.html

 に示されているように、殆どの項目で数値が改善されている事実と、運動能力的に高まった身体である。筋力、持久力という部分の全てが20年以上前の状態に戻っている事である。十年前の自分が不惑を大きく過ぎた年齢に達した時に、高校時代のズボンが余裕で入るとか、ベンチプレスで120kgオーバーを挙げる事ができるとか、はたまた、スイムで3kmを50分ペースで泳ぎ続ける事ができるとか、そういう事は想像出来なかったし、単車で峠を十代と同じノリで攻める事が出来たり、ロードやピストを当時レベルで乗れるなんて事は想像だにできなかったのは事実だ。

 ふと、周りを見渡すと、単車関連では大事な友人や先輩を、年齢に応じた疾病で亡くしたり、会社の同僚を見ても、ストレス?高血圧?糖尿病、癌疾病で亡くなったり闘病したりしている人の方が遙かに多いのが現実である。本来なら働き盛りで身体のダメージを抱えて生活習慣病を含む異常な状態に陥る事の大きな世代でありながら、全く異なる状態のコンディションを手に入れているというのは、考えれば凄く大きな財産だなぁ!と思ったりもする。

 まぁ、これだけの状態を維持するために、毎日4時間程度の運動が持続出来ている訳だけど、生活に余力と体力、気力が無ければ、それは叶わぬ願いである。逆に言えば、日々四時間の運動時間と体力が維持出来るようなライフスタイルで遊んでいるということでもある訳だ。

 ここ数年の変化がそうだけど、その前はどうか?を思い返すと、入社段階から5年前の状況は、そういえば、平均残業時間が月95時間を軽く超えて、最高では200時間残業という時代もあった。その頃は、週末も正月も無しで、毎晩日付が変わる迄プログラミング等を行う事や出先研究機関で実験を行っていた。その頃、家に帰るのは何時も午前1時過ぎ、寝るのは午前三時という生活だ。
 食事はどうか?というと、朝食抜き、昼食はホカ弁、夕食は外食、夜食にインスタント麺かコンビニ弁当という組合せである。当然、帰宅したら入浴して寝るだけだ。
 この時期、基本給の倍近い残業手当を得て、その後は、見なし残業時間的な考えで固定額の支給を得て金額的には大きな収入を得ていたけど、健康的か?というと、少なくとも肉体的には不健康であった。
 その入社から14年の生活で、身体は体重が68kgから88kgに、体脂肪率は33%以上になっていた。当時の運動は、会社で決められた週に一回の保健日であるノー残業デーで水泳と筋トレを行うだけであり、一週間で1.5時間の運動しか行っていなかった。

 それが、ここ5年の生活では、平均すると毎日4時間以上の運動を行っている。筋トレ、有酸素運動を、ベンチプレス、スイム、ローラー台、実走でこなしているけど、その蓄積が最悪の健康状態から高校時代のコンディションに回帰させてくれたのだ。糖尿病等生活習慣病発症手前から5年があれば完全に戻れるということでもある。

 思えば、生活の中で身をすり減らして疾病状態に陥るのが現代社会なのだろう。年齢で疾病状態になるのでなく、追い込まれた生活の蓄積が疾病状態になるということ。成人病という言葉でなく、生活習慣病というのは言い得て妙なのである。もっと言えば、現代社会病とでも言えるのだろう。
 自分のように状態が社会人のスタンダードから外れているのは、生活形態というか意識形態が現代社会人とは大きく異なっていると言う事なのかも知れない。

 まぁ、不健康な時代と今を考えると、限られた時間で健康を失うような生活スタイルには戻れないというか、自分の身体の能力に満足感を覚える今を失いたくないと強く思う。

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2010年4月15日 (木)

強迫観念症?

 そもそも、自分の本質というか、本来的な性格は、怠け者の横着者で自堕落な性格である。しかし、そのスイッチが入るのは何時もではなく、スイッチが入る前は、その反対の性格だと思う。そう、完全主義、理想主義、執着心は強い方向。つまり、典型的?A型的性格なんだが、ある時点でスイッチが入るというか、物事に対して脳内で割り切りが働いたら、全く別の方向に行きかねない側面がある。

 言ってみれば、神経質というか、神経症というか、そういう部分が含まれている。割り切れるかどうか?は限界をどう判断するか?継続性に意味があるか?実現性があるかどうか?を見て判断しているようだ。

 難題をクリアして継続できるかどうか?は継続する事で結果が期待出来る確信を持てるか?結果を得る事が出来るか?で判断しているし、逆に、見切りを付ける時には、その念が適うかどうかの判定で、無理!って言う時だ。

 で、思うのは、例えば煙草の中断、日々の運動の継続だけど、正直、よく続いているものだと我ながら関心する。煙草の場合は、美味いという感じを失ったので吸いたいと思わないから中断しているだけだけど、運動は正直、楽しいとか、そう言う事はあんまり思わない。楽しいよりも、しんどいというか、怠いというか、面倒臭いという思いの方が強い。

 筋トレだけでも、何だかんだ言って小一時間掛かる。ローラー乗ってもそうだ。ローラーに乗らずに実走でも1~2時間は掛かるし、週一とは言っても水泳も一時間。前後のプールへの行き帰りを加えると合計で2時間は掛けている。筋トレも怠いし、ローラー台もマンネリ感著しい。更に、プールが大掃除で泳げないとか、雨が降って早朝の実走が不可抗力的に出来ない時は、寧ろ嬉しいくらいの感覚がある。要は、そういう行動をしない方が楽!っていう意識自体を自覚している。自覚するくらいに面倒臭いという感情が在りながら、何故か、続けている。

 何故に続けているか?というと、仮に止めたらどうなるか?止めた状態から元気を今と同じく取り戻す事が出来るか?とか、そういう風に転落?した状態で健康を失った時に陥る状況の事を考えると、、、、やはり、止める事が出来ないというか、そういう感覚である。

 つまり、2005年以前の体重88kg級、健康診断で要注意項目が8項目という状態と、その頃の不調感(体力、単車に乗った時のキレ、ぎっくり腰)を覚えているから。その良くない状況で過ごした先に訪れるであろう重大疾病(癌、糖尿病、血管系疾患等々)の恐さを、あの頃以上に自覚しているからである。あの状況からの離脱を可能としてきたのが、今のライフスタイルであり、逆に言えば、今のライフスタイルを失えば当時の状況に戻ると思えば止めれないし、今のライフスタイルを保てば、今のコンディションを維持出来るという事が、ここ数年の生活で判っているからだ。これ、一種の強迫観念に追われたライフスタイルの維持のようなもの。まぁ、このスタイルが今を証明しているので、これが無謀とは思わないのも続いている原動力だ。

 但し、不可抗力的な事に対しては、諦めは速い。過ぎ去った過去を悔いる事は殆どしない。何故か?っていうと、時間は戻せないから。サッと諦める。今が最悪なら、最悪を離脱する方法しか考えない。勿論、未来を悪い方に考えてクヨクヨもしない。その状況になってから考えるのが一番合理的だからだ。予測出来ない事、自力で変えれない事を心配する程馬鹿くさい事は無いのだ。出来ない事は行わない。過ぎた事を後悔し続けない。どうにもならない不安は考えない。そういう性格でもある。

 つまり、自分の力でどうにか出来る!って思った事は徹底的に追い求めるけど、過ぎた事、自分の力の影響力の小さな事に対しては、考えない。その事態が自分と関わる時に初めて考えるというスタイルである。それが、執着心の強さや、諄さ、しつこさと、諦めの速さと、見切りの速さという相反する行動に表れているのだろう。

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2010年1月 5日 (火)

老いを埋めるモノは?

 老いる事は、生まれ持った可能性を活かすことなく過ごし、淘汰されて失う事。その変わりに、活かした可能性を具体的な能力に実体化する事でもあるというのが考え方だが、失った可能性というのは、一生失ったままなのだろうか?

 仮に、可能性を失ったのであれば、歳を経て新しいチャレンジが実を結ばないということにもなる。

 果たして、、、、そうなのか?というと、そうでもないとも考える事が出来る。

 勿論、あらゆる可能性を秘めていた時代と同じような方法で、新しい能力が身に付くということではないが、、、、、、

 で、思った事は、可能性を失っても、年老いてからでも、取り組み次第では、新しい個性を獲得出来るけど、この取り組み次第っていうのは、一体、どういう事?っていうのを考えてみた。

 言えるのは、少なくとも幼少期に過ごす方法と同じ方法では、新しい能力は手に入らない。それは、素地も、可能性も違う。掛ける事の出来る時間、手間も違えば、環境も何もかもが違うから仕方ない。

 言えるのは、違う方法なら新しい能力は手に入る。この新しい方法というのが、老いによって失った可能性を埋める方法だ。
 老いというのは、言葉を換えれば経験である。経験とは、過去の体験から未来の選択を合理的に効率的に進める事の出来る術の事である。

 新しい事の取り組み方を、過去の既知の取り組み方を参考に無駄なく効率的に進める事で、より短時間に新しい力が獲得できるのである。可能性というか本能を埋めて代用するために必要なのは何か?

 それは、経験、つまり、知識である。知識には、物事の意味、論理、解明の手順、類推の方法論という事。そして、目的としている物事を分解して整理して系統立てて理解して、何をどうするか?というのを自分で決める力の事である。
 成長過程において、何かの可能性を実体化する。その成長のプロセスで、その取り組みが何を意味するか?どう対処してきたか?どんな手順だったか?を理解するの必要な知識を教育によって受け取っている。その教育によって、体験した過程を理解し、方法論を吸収していくのである。その吸収した方法論こそが、可能性を失った以降の生活において、新しい物事を消化する上で必要な能力なのである。

 そう、能力を実体化することを成長期で体験し、その体験を通して物事の進め方を論理で納得し知識として得る。得た知識を、以後の生活で活用して新しい能力を加えていく、、、、それが成長ということだろう。

 結局、老いによって可能性は失うが、引き換えに、得ることのできた能力を理解することで、その手順という知識を得る。知識は、老いよって失った可能性の代わりに得た財産となる。この財産を使って新しい能力を得るというのが人の一生のように考える事が出来る。

 例えば、子供はありとあらゆる可能性を持ち、それなりにスポーツに接することが出来て楽しみを感じる事が出来る。そこで、得意な一つに傾注し、それに特化し熟練することで、特技として能力を獲得する。この特技を得る過程は子供ならではの獲方である。
 成長とともに、特技をさらなる高みに高めるには、そこに潜む論理を理解し、必要なモノは何か?を考えるようになる。結果、特技が特技たる理由、その能力を高めるに必要な手順や論理を身につける。そして、更なる高みに達する。
 このプロセスで、特技を科目として理解し、その上達の意味を知る。
 意味を知れば、新しい種目に取り組むとしても、その種目の持つ意味を考えれば、体験で得たモノに当て嵌める事で、新しい種目を上達する手順を見出す事が出来る。

 そう、特技を持っていれば、その展開を別のジャンルで発揮できる。これこそが、本能的な可能性による上達とは異なる方法での上達の仕方である。

 可能性を失うというのは、実は、何を得る事で、知識や方法論という経験を得るということなのである。

 結局は、これも神経という部分で見れば、『広さ』、『乱雑』から『深さ』、『体系』というモノへの変化に一致する。年齢を重ねる事で必要なのは、神経、考え方の深さ、体系性ということ。これを得ないで歳を重ねる事が一番つまらない人生とも言える。

 教育論に展開すれば、どんなテーマでも良いので、子供には、馴染む世界を見つけ出させ、その世界を通して、考え方や神経といった部分で深さと体系性を身に付けさせることこそが必要なのである。それが得られないとすれば、それは非常に不幸な事だと言える。可能性も知識もない、、、、それは、チョット悲しすぎる事だ。

 身近を見渡すと、、、、何をやっても出来る人=新しい事に躊躇しない人=何か一芸、特技を持っている人であり、何をやっても上手く出来ない人=新しい事を避けたがる人=表面や体裁だけしか無い人である。前者っていうのは、自分の経験で得たモノから得る手順を理解している人であり、それが自信に繋がっている人だろうし、後者っていうのは経験から得るモノが無い人であり、それが内向的な人なんだろう。

 そう言えば、勝間式とかを唱える経済評論家も、実践出来る人、唱える人っていうのは、自分の中に自信が持てる、即ち、何かで成功体験や特技を持っている人であり、それに憧れても挫折する人っていうのは、そのような書物に頼るという時点で、自分で自信や特技を得る事が出来ない人なんだろうなぁと、素直に思うところである。

 老いるのは宿命だが、それを埋めて余りあるのが経験と、経験から得た知識、経験を通して学ぶ手順や論理である。老いを埋めるには、それしかないのだが、それを得ると言う事が、逆に老いるという事なのかも知れない。
 毒舌的に言えば、老いるだけで、自信が持てず、経験に基づく知識や手順を得る事が出来ないというのが、勝ち組み、負け組みという区分でいうところの、完全なる負け組みなんだろう。成長後、即ち、老いのプロセスに入った段階で、老いを埋める経験を積んで知識や手順を身に付けるのは、並大抵では出来ないのでは無いだろうか?

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老いと若さ

 ここ最近の筋トレで得た筋肉、若い筋肉についての記事を纏めていて思い直した事。

 それは、全ての事について言えることだが、『若さ』と『老い』について言える事は只一つで、若さとは、可能性の広がりの事を言い、老いとは、可能性から選び育んで得た能力の事、即ち個性の事を言うのかな?という思いだ。

 可能性という面では、どんな方面にも育つ汎用性、未来を持ってはいるけど、それは入口に立てるというだけの話であり、取っ掛かりの広さの事であり、この選択肢の中で何を選ぶか?何を獲得するかで、成長に併せて個性というか性格というか、そういうモノが実体化するという考え方である。
 選んだ方向性に生き方を定める事で、それに必要なモノはドンドンと研ぎ澄まされていき、それが熟練という言葉で表される。そして、選んだ能力への対応の純度を高める程に、それ以外の汎用性というか、選ばれなかった可能性は淘汰されて消滅していく。

 この適応の深さというのが成長であるという考え方が一番理解しやすいようだ。

 そうすると、『老い』とか『若さ』が、可能性と個性の比率によって決められると考えれば判りやすい。
 個性として現れていないけど可能性が無限というのが生まれたばかりの世代であり、可能性は無いかも知れないが対極が年の功という表現で敬われる世代だろう。

 この、可能性と個性は具体的に何に表されるか?というと、筋肉の多様性と適応性、思考の広さと深さという違いに表される。

 つまり、可能性という部分では、深さは無いけど広さがある。個性という部分では広さは無いけど深さがあると言う事。この神経系の広さから深さへの転換というのが、個体の誕生から消滅に到る過程で辿るプロセスということ。
 この可能性を個性に実体化するために必要なのが、TPOではないが、必要な時期における、適切な刺激と言う事である。これを経験する事で、個体が完成していくのであろう。

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