老いる事は、生まれ持った可能性を活かすことなく過ごし、淘汰されて失う事。その変わりに、活かした可能性を具体的な能力に実体化する事でもあるというのが考え方だが、失った可能性というのは、一生失ったままなのだろうか?
仮に、可能性を失ったのであれば、歳を経て新しいチャレンジが実を結ばないということにもなる。
果たして、、、、そうなのか?というと、そうでもないとも考える事が出来る。
勿論、あらゆる可能性を秘めていた時代と同じような方法で、新しい能力が身に付くということではないが、、、、、、
で、思った事は、可能性を失っても、年老いてからでも、取り組み次第では、新しい個性を獲得出来るけど、この取り組み次第っていうのは、一体、どういう事?っていうのを考えてみた。
言えるのは、少なくとも幼少期に過ごす方法と同じ方法では、新しい能力は手に入らない。それは、素地も、可能性も違う。掛ける事の出来る時間、手間も違えば、環境も何もかもが違うから仕方ない。
言えるのは、違う方法なら新しい能力は手に入る。この新しい方法というのが、老いによって失った可能性を埋める方法だ。
老いというのは、言葉を換えれば経験である。経験とは、過去の体験から未来の選択を合理的に効率的に進める事の出来る術の事である。
新しい事の取り組み方を、過去の既知の取り組み方を参考に無駄なく効率的に進める事で、より短時間に新しい力が獲得できるのである。可能性というか本能を埋めて代用するために必要なのは何か?
それは、経験、つまり、知識である。知識には、物事の意味、論理、解明の手順、類推の方法論という事。そして、目的としている物事を分解して整理して系統立てて理解して、何をどうするか?というのを自分で決める力の事である。
成長過程において、何かの可能性を実体化する。その成長のプロセスで、その取り組みが何を意味するか?どう対処してきたか?どんな手順だったか?を理解するの必要な知識を教育によって受け取っている。その教育によって、体験した過程を理解し、方法論を吸収していくのである。その吸収した方法論こそが、可能性を失った以降の生活において、新しい物事を消化する上で必要な能力なのである。
そう、能力を実体化することを成長期で体験し、その体験を通して物事の進め方を論理で納得し知識として得る。得た知識を、以後の生活で活用して新しい能力を加えていく、、、、それが成長ということだろう。
結局、老いによって可能性は失うが、引き換えに、得ることのできた能力を理解することで、その手順という知識を得る。知識は、老いよって失った可能性の代わりに得た財産となる。この財産を使って新しい能力を得るというのが人の一生のように考える事が出来る。
例えば、子供はありとあらゆる可能性を持ち、それなりにスポーツに接することが出来て楽しみを感じる事が出来る。そこで、得意な一つに傾注し、それに特化し熟練することで、特技として能力を獲得する。この特技を得る過程は子供ならではの獲方である。
成長とともに、特技をさらなる高みに高めるには、そこに潜む論理を理解し、必要なモノは何か?を考えるようになる。結果、特技が特技たる理由、その能力を高めるに必要な手順や論理を身につける。そして、更なる高みに達する。
このプロセスで、特技を科目として理解し、その上達の意味を知る。
意味を知れば、新しい種目に取り組むとしても、その種目の持つ意味を考えれば、体験で得たモノに当て嵌める事で、新しい種目を上達する手順を見出す事が出来る。
そう、特技を持っていれば、その展開を別のジャンルで発揮できる。これこそが、本能的な可能性による上達とは異なる方法での上達の仕方である。
可能性を失うというのは、実は、何を得る事で、知識や方法論という経験を得るということなのである。
結局は、これも神経という部分で見れば、『広さ』、『乱雑』から『深さ』、『体系』というモノへの変化に一致する。年齢を重ねる事で必要なのは、神経、考え方の深さ、体系性ということ。これを得ないで歳を重ねる事が一番つまらない人生とも言える。
教育論に展開すれば、どんなテーマでも良いので、子供には、馴染む世界を見つけ出させ、その世界を通して、考え方や神経といった部分で深さと体系性を身に付けさせることこそが必要なのである。それが得られないとすれば、それは非常に不幸な事だと言える。可能性も知識もない、、、、それは、チョット悲しすぎる事だ。
身近を見渡すと、、、、何をやっても出来る人=新しい事に躊躇しない人=何か一芸、特技を持っている人であり、何をやっても上手く出来ない人=新しい事を避けたがる人=表面や体裁だけしか無い人である。前者っていうのは、自分の経験で得たモノから得る手順を理解している人であり、それが自信に繋がっている人だろうし、後者っていうのは経験から得るモノが無い人であり、それが内向的な人なんだろう。
そう言えば、勝間式とかを唱える経済評論家も、実践出来る人、唱える人っていうのは、自分の中に自信が持てる、即ち、何かで成功体験や特技を持っている人であり、それに憧れても挫折する人っていうのは、そのような書物に頼るという時点で、自分で自信や特技を得る事が出来ない人なんだろうなぁと、素直に思うところである。
老いるのは宿命だが、それを埋めて余りあるのが経験と、経験から得た知識、経験を通して学ぶ手順や論理である。老いを埋めるには、それしかないのだが、それを得ると言う事が、逆に老いるという事なのかも知れない。
毒舌的に言えば、老いるだけで、自信が持てず、経験に基づく知識や手順を得る事が出来ないというのが、勝ち組み、負け組みという区分でいうところの、完全なる負け組みなんだろう。成長後、即ち、老いのプロセスに入った段階で、老いを埋める経験を積んで知識や手順を身に付けるのは、並大抵では出来ないのでは無いだろうか?
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