2009年5月21日 (木)

趣味と趣味性

 趣味は何?って聞かれたら、、、、、間違い無く、単車って答える。
 でも、自転車、デジカメ、パソコン、、、、、、も、それに近い存在だったりする。

 非常に曖昧だけど、趣味か否か?っていうデジタル的な敷居は非常に難しい。自転車、デジカメ、パソコン、、、、、これらの物を買う時、完全に実用色一辺倒か?っていうと、そうではない。機能を重視したり、それ以外の要素を考慮したり、、、、でも、やっぱり趣味とは違うのである。趣味ではないけど、趣味性が濃さがあるとでも言おうか?そんな感じなのだ。

 デジカメも嫌いでないけど、趣味ではない。趣味ではないけど、拘り、好み、趣味性は在る。そんな感じなのである。

 屁理屈かもしれないが、趣味と趣味性のあるモノっていうのは、曖昧だが確実に違うのである。

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2009年3月31日 (火)

忙しすぎである。

 最近、考える事が多すぎて楽しすぎである。

 冬の間から頭の中で割合が増えてきたのがデジカメネタ、AV機器ネタ、パソコンネタ、、、、である。この辺は常に関心がある訳でなく、周期的に関心を持ったり、失ったりを繰り返している。その周期っていうのは、他の趣味が増える程長くなる。基本周期っていうのは、価格的に安価な程、短周期で高コストな趣味程長周期である。また、関心を持ち続ける時間の長さは、自分にとって知らない領域が増える程、或いは、分野的に進化の速度が速いジャンル程、その関心を持続する時間が長くなるのである。

 今、時代的には自転車ブームということであるが、それ以上に世間一般の関心が高いのは、やっぱりアナログ放送の終了と地上デジタル放送の一本化では無いだろうか?
 地デジになったらどうなる?とか、地デジでハイビジョン映像を楽しむには、何が必要とか?地デジで映像データの扱いはどうなる?とか、、、、そういう部分が結構興味を惹くのである。
 また、パソコン関連も然りである。長く続いたWindowsXpも終わり、Windows Vistaも一般化し、次はWindows7とか、、、、それを動かすPCも数年前からは随分と規格やトレンドが様変わりしている様子。OSが変わってどうなった?変わったOSを動かすハードがどう変わった?そして、何が出来るようになった?とか、、、、

 AV機器、パソコン関連、ネット関連の世界は進歩が速く、それを曲がりなりにも利用して楽しむには、その世界の状況、トレンド、基本的な知識は少なくとも身に付けておかないと全く見えなくなるのである。
 使わないから知らないでよい、、、、って考えになると、この世界はアッという間に浦島太郎状態で、何にも判らない状態に陥りそうである。

 今更ながらだけど、テレビ放送の地上デジタル化によって出来る事は何か?この仕組みでもたらされるメリットは何か?デメリットは何か?そして、これを自分のイメージ通りに使うには、何をどうすべきか?が関心あるし、パソコンも脳内のPentimuIII時代から今の時代に併せるように知識を更新した上で、最近のOS事情はどうで、ハードはどうで、この最新の資源を使えば何が出来るか?が凄く興味があるところ。

 特に、映像関連データの取り扱いが関心の対象で、デジタルビデオ、デジタルカメラ、配信映像といった映像データを、専用機器、パソコンシステムといったハードウェアで、どのように扱えるか?というのが非常に大きな関心事だったりする。

 特に、地デジ、BS、CS配信放送コンテンツを、CATV用STB、レコーダー、地デジテレビ、そして、パソコンを、どのように連携させるのが良いのだろうか?これが今の最大の関心事だ。

PS なんだか、無駄遣いで忙しい系?の報告と感じる奴がいるようで、金貸し系のTBが来る。ということで、この記事のTBは受け付けない事にした。生憎、金には困っていない。金貸したい奴は、自分で借りれ、、、、株や資産運用で儲かる話したがる奴は、自分で儲けろ、、、、、美味い話は、人にしない。これが基本。人にするのは欺く話。人から巻き上げる話。そういうモンさ。
大体、金には興味がない。自分の遊びに必要な分があれば、それ以上は要らない。金を貸してくれる話をする奴にお願いが一つ、、、、俺だけ、一日を30時間とか40時間にして欲しい。時間が欲しい。時間を増やしてくれるなら、一時間ナンボで買ってやるぜ。
忙しすぎて、寝る時間を削るしか無いのが今。就寝タイムが午前3時っていうのは、如何にも厳しいのである。
少なくとも、金は借りるモノではないのは確か。基本はニコニコ現金払いさ。それでも金ネタなら、貰えるモノは貰うって程度だ。金くれるなら、、、、そうだねぇ、、、10億円くらいを紐付き無しで無償援助してくれるなら、自由時間が長くできるかもしれないねぇ、、、

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2008年12月31日 (水)

今年を振り返って、、、やはり健康が一番だ。

 平成20年という年が暮れようとしている。例年通りに、表題のような事を考えてみた。但し、例年は一年の総括というノリだが、今年はチョット違う。一年の総括というよりも半生の総括というか、これからの過ごす方針はどうしようか?という感じである。理由は、年齢的な要因。自身の年齢による事もあるだろうし、同世代の人の状態を見ての影響もあるだろう。言えるのは、やはり四十年以上という半生を生きてきたからということ。

 自分の寿命が運命的に何時か?は不明だが、今が丁度折り返し地点のようにも感じる。希望を言えば、人生の1/3くらいと思いたいところだけど、それは泉重千代さんを越えるので有り得ない。まぁ、よく考えても半分くらいかなぁ?と思うところ。

 それで、今年一年の最大の収穫は?というと、これから過ごしていく上でのターゲットが定まったという事である。
 昨年迄のターゲットというと、今考えれば小さなネタばかりだったように思うけど、今、頭に思い描いているターゲットというのは、昨年迄のターゲットとは異なり、非常に緻密で、継続的且つ、まやかし無しの取り組みを続けなければ絶対に実現不可能なターゲットである。

 振り返れば、過去はどうやって生きてきたか?というと、物心付いて以降は、何時も、何か、誰かと競ってきたように思う。そういう競争的な意識が芽生える前というと小学校低学年以前の話だが、小学校中学年以降というのは、実現出来る出来ないは別として、理念としては、好きな事はナンバー1を目指し、競うと負けは許されず、仮に負けても勝つまでトライする。そういう好戦的な意識で過ごしてきたように思う。そういう競い続けるという考え方は大学に入る前迄は少なくともそういう意識だったと思う。

 大学入学以降は、多少は考え方は変わり、誰かと競うというよりも、誰もしない事、誰も気が付かない事、誰もやった事が無い事ばかりを考えて、人と同じは絶対にしないという考え方で過ごしてきた。それは、その後の進学においても、その方向を追求し、結局は、誰も出来ない事、過去の取り組みで諦められていた事を選り好んで進めるという方向にエスカレートしてきた。その本能的な欲求が満たされるレベルの組織を本能的に選んでいるというのは、本能的な選択の結果、今の会社に居るんだろうとも思うところ。

 そのような指針で、大学卒業後17年が経過した訳だが、選んだ場所がまずかったかどうか知らないけど、今の場所では、その組織の悩みという部分を選択的に取り除くという行為に、あまりにも労力が不要で考える事も無いような感じを受けるのである。
 チラシの裏的に言えば、最近取り組んできた事というのは、抽象的なテーマを見て、結果の出る手法を思い浮かべるのにも時間的にも殆ど負荷が掛からない状態。半ば、瞬間的に答えば導き出せるといって過言でないように感じるのである。それ故に、手応えの無さに、今度は、最近20年の生き方の反動ではないが、そろそろ、この路線から違う価値観で生きるモチベーションを保たなければ、、、と思ったりしている。

 で、何をターゲットにしようか?を探す一年が、今年であったのである。その結果、、、、、辿り着いたのが、自分の子供より長生きするぜ!って無謀なチャレンジである。無謀とは思いつつも、それを具現化するには何が有効で、どう過ごすべきか?を考え続ける毎日である。
 昨今の、様々な疾病が人間を蝕むという話は良く聞くが、それを如何に克服するか?がターゲットなのである。例えば、認知症に対しては、脳内ネットワークを如何に活発に動かすか?であり、そういう事で、ブログの記事を激しく更新したりしているのである。
 勿論、身体機能、骨年齢、体年齢・・・・等を現実以上に活発に保つべく生活するという事で全ての行動を統制しているつもりである。

 このモチベーションを維持し続ける事!これが、これからの生きる路線である。過去の知識と能力、体力の全てを自身の健康維持に集中して過ごす!これが、これからの生き方と決めた一年である。

 そういう考え方で過ごしてきた今の体組成は?っていうと、、、、

・身長:171.5cm
・体重:65.5kg
・体脂肪率:11.7%
・骨格筋率:37.1%
・基礎代謝:1608kcal/day
・身体年齢:32歳

 ってところ。で、一年後には、出来れば肉体年齢は20歳台に持ち込みたいと思うのである。さて、来年一年はどうなるだろうか?

 来年一年が終わる時、この身体スペックはどう変化するか?健康は維持できているか?それが一番である。

 来年一年に限らず、当面のターゲットは、昨日の自分以上にパワフルなコンディションを明日実現するということ。不可能な夢だが、不老不死みたいなものがターゲット。それ以外の関心は皆無といっても良い感じだ。

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2008年12月 9日 (火)

クリスマスプレゼント♪

 先々週の日曜日にチャレンジングな取り組みで後悔したのだが、懲りずに次の一手を考えている。
 次の一手っていうのは、どの分野か?っていうと、1歳5ヶ月の息子に自転車というか、そういうモノに乗せるってチャレンジである。

 屋外においてペダル外し、補助輪付き、手押し棒付きとは言っても14インチの幼児車は剰りにも巨大過ぎるっていう記事を先日アップしたところ。考えてみれば、ペダルが漕げないからといって巨大な自転車でペダルを外して乗せて大丈夫な筈は無いのである。ペダル付きの三輪車さえペダルに足を乗せようとしない訳であり、冷静に考えれば親が無謀なだけなのだ。

 しかし、室内ではプーさんの乗用玩具に跨って激走しているし、木馬に跨って揺らさずに激走しているのが現状。この姿を見ると、なんとか激走させたくなるのである。
 但し、ペダルは漕げない。ハンドル操作で方向をコントロールするのは、プーさんの乗用玩具で既にOK状態、、、、、

 そんな状態を考えている段階で、クリスマスプレゼントは何にしようか?と検討中なのだ。

 振り返れば、上の娘の乗用玩具系の取り組みは?っていうと、二歳で三輪車、三歳で14インチの幼児車(補助輪付き)を与え、4歳で14インチの補助輪無しデビュー、5歳でキックボード、年長さんに進級してから20インチの18段変速のジュニアMTBってステップを踏んでいる。
 下の息子は、娘と同月齢レベルで身長、体重とも二周りは巨大であり活発。今が一歳五ヶ月であり、このクリスマスに何か与えて、二歳で三輪車~補助輪付き自転車、三歳で14インチ補助輪無しデビュー、四歳でジュニアMTBと行きたいなぁって思っているところ。

 色々と案があるけど、興味が一瞬湧いたのがチョイ前に雑誌等で見た『三輪車パスして、いきなり自転車』って奴。これは、いろんなタイプがある。ベーシックなモノから、折り畳み、舵取り、、、、で売り文句は適応身長が83cm~115cmということ。

http://www.people-kk.co.jp/showroom/jit/jit_top_construction.htm

 二三年前のブリヂストン製でも見掛けたし、外国製の中には、駆動系が外せるタイプで、成長に応じて、駆動系脱着、手押し棒脱着、補助輪脱着が可能なモノもあったりする。確か、ブリヂストンのモデルはKIXって名前のバイクだったと思う。

http://www.cyclestyle.net/news/detail/185.html

http://www.nikkeibp.co.jp/archives/342/342905.html

 このKIXは既にラインナップから外れており、多分商業的には失敗だったのだろう。

 そんな処だが、既に新品同様っていうか痛んでいないお下がりの三輪車と幼児車があるし、手押し棒も買った後だし、重複用途の乗用玩具を買うのも無駄を感じるのである。
 この間、14インチの幼児車で頭を怪我させたが、今の段階では14インチの幼児車であっても巨大なのだが、これがアッという間に小さくなる。それ故に、10~12インチクラスのいきなり自転車を買っても、使う時期はホンの瞬間で終わる危惧もある。メーカーサイトにあるように2~6歳迄使えるっていうのは、これは親にとってのメリットでしかない筈だ。

 それで、出来れば今ある傷みの無い三輪車、幼児車を活用させることが出来て、これらと重複しない遊び方が出来る乗用玩具を調達したいところ。

 こういうマルチ機能自転車もまぁ、悪くないのだが、どうもピンと来ないのが自分の感性だ。っていうのも、別に金が無いのでなく、必要か?って考えた時に納得出来ない部分があるのだ。
 そう、娘の三輪車を買う時も、ペダルフリー機構とか、ステップとか、いろいろな装備の三輪車があったけど、敢えて極シンプルにしたのは理由がある。それは、子供の立場になって、どうにかペダルが漕げるか?って状態になった時に、複雑な機構故に大きく重くなるのは結構な負担かも?って考えたからだが、適応身長83cm~115cmっていうのは、2歳から6歳迄って事。これは、、、、、親の経済性を考えたら良いかな?とも思えるけど、2歳児には重量で12kg以上の車体は厳しいし、6歳児になるとクランク長も短すぎ、トップ長も短すぎだ、、、、年代に応じて乗り分ける方が子供は快適か?と思ったりするのである。実際、上の娘は5歳児で18段変速でウヒャウヒャ言ってるので、そういう年齢に併せたモノを与えるのがベストだと思うのである。

 そういう考え方で子供が年齢事に快適に遊べ、尚かつ、持っているモノ(娘のお下がり)の活用出来る組合せ条件を満たした一品を探して調達する予定。

 親バカなバカ親だけど、勉強も何も出来なくて構わないから、男の子だから自分より上手く二輪車を扱えるように!っていうのがたっての希望。
 クリスマスプレゼントとして息子に与えるモノ(あくまでも乗用玩具、二輪運転に慣れるモノ、、、、)を検討中なのだ。娘には既にオーダー済み。これ、どっかの記事(ブログか日記)に書いたような気がするけど、ニシダサイクルさんに16インチの一輪車をオーダー済みである。

 因みに、自分は一輪車には乗れません。乗った事は在りません。乗る気もありません。自転車での一輪走行、単車での一輪走行は楽勝ですけど、一輪車での一輪走行は無理です。

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2008年10月13日 (月)

自転車≠スポーツか?

 スポーツセンターなり、サイクリングコースなりで運動に出掛けて思うのは、自転車っていうのは、スポーツ以前に鉄道模型とかラジコンのような文系的なインドア趣味に近いのかなぁ?と思う事が多い。これは単車にも言える事だけど、どんなに高性能なスーパースポーツであってもモノに跨っているだけでは、モノ収集、モノ満足的な趣味にしか見えないのと同様な感じである。

 勿論、自転車に乗るっていうのは健康には良いことだろうけど、健康に良い運動ではあっても、決して体育とは異なるような印象だ。ここで言う体育っていうのは、体育会系的運動って意味であり、どちらかというと、他のスポーツは原則苦手って印象の話。

 色んな運動というか競技があるけど、そのジャンルに傾注する人が集まる空間において、ジャンルに取り組む人のフィジカルパフォーマンスというか、そのパフォーマンスを予感させる肉体や取り組んでいる最中に発揮しているパフォーマンスを見ると、他の競技系スポーツに較べると、自転車なんぞは、コスプレ陳列にしか見えない気がする。少なくとも日常で練習?がデフォルトの空間ではそう思う。

 スポーツセンターでのプールなどでは、泳ぐ人は、本当に黙々と延々と相当な速度で泳ぎ続ける。そして、その肉体は相当にシェイプされているのが判る。同じく、トレーニングルームで機材を用いた筋トレを繰り返す人も同じで、その肉体は相当に鍛え上げられているのが判る。同様に、高校、大学の運動部部活の一環で自歩道をランニングする人も身体の形態が明らかにスポーツ選手となっている。

 しかし、、、

 自転車の場合は、そういったジャンルのスポーツに取り組む人とは絶対的に異なっている。細いか太いか?の議論で太いのは論外として、細い人でも単純に細いだけで、筋肉も何も無いのが殆ど。そんな感じである。
 少なくともホビーレーサー気取りの連中っていうのは、陸上競技、水泳競技を長く取り組んできた人と比較して、そのフィジカルパフォーマンスは全く較べ物に為らない低レベルのように思うのは気のせいだろうか?
 特に、スポーツサイクルブームの今は、健康グッズ+見栄、自己満足的趣味としても注目を浴びており、その見た目スポーティなサイクリストの平均的なフィジカルパフォーマンスレベルは他のスポーツに較べると圧倒的に低い状態かもしれない。

 まぁ、それでどうこうは無いけれど、そんな好意的で無い印象を持つのは、あまりにも挑発的であったり、信号無視等のマナーの荒んだサイクリストが目に付くからである。先の体育会系というか競技系で運動を行ってきた人っていうのは、そういう挑発やルール違反はあんまり無いように思うからだ。そういう掟破りが多いのは、自己中的発想が許される生い立ち故だろうし、自転車のみをスポーツ?って思い違ってる連中は、その辺の考えが根ざしてないように見える訳だ。挑発やルール違反を自分に寛容しているのは、体育会系的戒律に身を置いた事も無い人が多いだろうし、下手すると、他の競技経験なんぞ無きに等しい場合も多そう。それが見た目的なフィジカルの未成熟性とシンクロする訳である。
 責めて、自転車でスポーツを気取るなら、挑発は迷惑行為で禁止なのは勿論だが、最低限度、交通ルールくらいは守った走行をすべきだろうし、仮にも大人で車の免許なりを持っているなら、確認動作等は最低限度実践して貰いたいものだ。それが出来ないなら立派な愛車を部屋に飾って外に出歩くなと言いたい。

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大人の道楽かなぁ、、、七五三みたい、、、

 日曜の正午~午後一時の間にオ・モイヨWW号でホームコース周回を行っていた時に車道部分で目を引いたのが、かなり新しいハーレーにピッカピカのレザーベストにウエスタン風?ブーツで揃えた真っ新装備のハーレーオジサン軍団のツーリング。

 コレ見て思ったのが、最近の自転車でもよく見る、高級自転車+レースゥィーティーな出で立ちのオッサン連中の戯れる姿、、、

 同じである。

 舶来ブランドのロードバイクもハーレー等外国産バイクも、なんていうか、凄いピッカピカで、乗り手の装備もピッカピカ、、、、でも、ロードも単車も何か浮き加減に見えるっていうか、何て言うか、危なっかしいっていうか、ぎこちないっていうか、、、、、ミスマッチっていうか、そんな感じ。

 年代的には、、、、30代後半以降~50代世代で、まぁ、今消費を引っ張っているバブル期に青春を謳歌したであろう世代なんだろう。それ故に、小銭は持っているんだろうけど、微妙に、何か変!っていうか、口悪くいうと、七五三のような雰囲気。

 猫も杓子も高級ロード、誰も彼もがハーレーダヴィッドソン、、、、、まぁ、見た目の注目も浴びるし、雑誌の特集のメインを張ったモデルなんだろうけど、剰りにもコテコテ過ぎて、見ていて恥ずかしい感じを受けるのは言い過ぎだろうか?

 雑誌等の消費動向分析では、若かりし頃、憧れながらも制度的、経済的事由等々で夢が叶わなかった人が、規制緩和或いは経済力を身に付けて当時の願いが具現化するような消費動向が結構多いって話だが、ホント、そんなのが多すぎ。確かに、舶来ブランドの高級ロードバイク、単車でもハーレーに限らずイタリアンブランドのモデルは良いところはホントに多いと思うけど、そういう良さっていうのは、回り道して初めて判る良さってのもある訳だが、こういう時流の中で、それ系を仮に買ってしまうと、傍目に見て、雑誌の消費分析でも紹介されているような絵に描いたようなサンプル消費者と区別が付かなくなるように為るのは、まっぴらゴメンであり、そういう層の増殖によって、昔からずっと趣味としてきた世界において自分自身のモノ選びの選択肢が狭まってしまうのが嫌なのだ。

 やはり、この世界のモノは価格に応じて世界がステップアップするっていうのは事実だし、そういうレベルのモノが高額となるのは、突き詰める世界がシビア故にコストが掛かっているし、製造元が名の知れたブランドって場合は、そのブランドの存在意義は、ブランドがブランドとして拘れる世界を持つ事を崇拝する極少数の本来のユーザーが在ってのモノなのである。
 資本主義というか商売だから、金さえ出せば、そういうモノは手に入るのだが、そういうモノは、金さえ有れば使えるというモノでも無い訳だ。恐らくは、そんなモノの作り手の意識としては、そのモノが本来の使われ方というか、そういう世界を発揮するための道具としての使われ方を願っているだろう。

 そんな事を考えると、憧れの具現とか、見栄とかで買う事は否定はしないが、買われたモノに気持ちがあると想像したならば、モノが可哀想、モノの作り手が気の毒って思うのである。やはり、なんでも釣り合いが大事である。乗り手とモノの釣り合いは、財力だけではないのである。特に競技機材の道具の場合は、財力+経験こそがモノと釣り合えるか?の重要なファクターであり、モノに見合った乗り手でなければ!って意識を持っているのだ。

 まぁ、自分勝手な考えだが、そういう気持ちとは懸け離れた現状が表題の如くに、高価な機材が七五三の貸衣装のように見えるのだ。こういう貸衣装状態がほのぼのと見えるのは七五三の如く、幼年世代でありオッサンに貸衣装はなんとも奇妙なのである。金のあるオッサンが高級な機材を纏いたいので在れば、モノに失礼とならないように己のレベルを機材や作り手に失礼の無いように仕上げる必要があるって考えはお節介かもしれないが、そう思う訳だ。

 ガソリン高で省エネブーム、健康ブームで単車、自転車が注目を集めるのは良いけれど、なんか、チョット嫌な感じも受ける今日この頃である。

 個人の趣味なんで口出しは無用なんだろうけど、多分、こういう系統の人とは、会話をしたとしても接点が全く無いんだろうなぁと思うところ。最大の相違点は、モノに対して、作り手に対して申し訳ない!って気持ちが有るか無いかの所だ。

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2008年7月12日 (土)

みんなと一緒!?

 子供の言葉、或いは、ブームにおける人の行動等々で同じモノを揃えるっていう風景は良く見掛ける光景である。そんな状況を目指す人々が口にする言葉っていうのは、表題の如く『みんなと一緒!』っていう合い言葉だ。

 この『みんなと一緒』っていう考え方がブームや流行の底辺にあるように思うところである。これは、日本以外の国がどうか?は知らないけれど、みんながやるから安心とか、みんなでやれば怖くないとか、、、そういう意識っていうのは、本来の目的とか原則論を見誤りそうに思うところ。

 特に悪い例で言うと、鶏肉の産地偽装でブラジル産を国産と偽った社長の言い分は『他もやっている。ウチだけではない、、、』っていうのも、みんなやってるから、、、って言い訳だし、、、、

 学校や幼稚園での流行りに対しても、子供達の言い分は、『○○ちゃんも持ってるから、、、』とかである。

 で、思うのは、人がやってるから!ってのは、何かの行動を起こす際の目的になるか?という疑問である。動機になっても、目的とは違うのでは?というのが印象だ。
 更に言えば、どんな人もそれなりに頑張っているのだが、みんなと同じ事をやるっていうのは、同じフィールドで同じ様に競争すると言う事であり、それが商売であっても、自己主張であっても、結局は突出できず埋没するという結果となるのは明白であり、少なくとも、何かの分野で成功して儲けるって考えでは、人と一緒という考え方では、儲からないとも思うのである。
 企業活動でもそうだ。企業においても他社がやってるから我が社でも、、、とか、余所の技術を使って我が社でも、、、っていうのは、根底に人がやってるから!って意識があり、そういうのは、動機であっても本当の目的では無いのである。

 話が逸れそうなんで、元に戻すと、この思いは、自転車や単車のブームの傾向から感じた事。自転車や単車では、ブームが発生し多くの人の関心を集め盛り上がっていく中で、何人の人が目的を持って選択をしているのだろうか?と思う事が多い。単車の過去のレプリカブームでも、盛り上がりの理由を高性能を求めてって論調を聞くけど、実は、誰々が乗っているから!って動機の方が殆どであり、今の自転車ブームでもそうだろうと思うところ。自転車では外国製の高級ロードバイクが注目だが、これまた殆ど限られたブランドに集中しており、そのブランドに跨る人の多くが経験の深いとは言い難いの現状である。でも、人気ブランドに集中するっていうのは、そのブランドの本質が何?って判断の前に、みんなが選んでいるから!って理由で選択している場合が殆どでは?と思うのである。

 拘りを持つっていうのは、自己主張をするって事だろうけど、人と同じでは殆ど自己主張は出来ないし、人と同じでは、人とは違う結果は得られないのでは?と純粋に思うところだ。

 本来、趣味とか研究というのは、拘りが必要であり、拘りとは主張であり、目的意識の筈だが、それを超越した『みんなと一緒』的考え方では、主義も主張も目的も欠如しているように思うところ。

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2008年6月10日 (火)

習慣と趣味

 大した意味は無いけど、色んなスポーツ、運動・・・・ってのがある。そして、その目的っていうのも、それ自体を楽しむのが目的だったり、それを通じた交流や友好が目的だったり、ダイエットや健康というような別の目的の手段だったり、、、、と、同じ行動でも人によって取り組み方は様々である。勿論、その取り組み方っていうのも一意的なモノでなく、いろんな要素がいろんな割合で、人によって様々な気持ちで接している。

 それ故に、行動自体が何だ!って断定的に目的や意味を言い当てる事は出来ないが、なんて言うか、何でもだが、自分の場合は、殆ど全ての行動(趣味、運動、学習、、、、)が自分の習慣のようになっている。こういった行動を通して世界や交流を拡げるっていうよりも、今の行動の全てが習慣のようになっているのである。

 習慣っていうのは、何か?っていうと、何らかの行動を取る時は、意識は自分の内面しか考えていないっていうことだ。自分のために、自分の疑問や思いを自分の中で判断し、自分の中で消化するって事であり、その行動においては他人が隣に居るって状況は想定していないというか、意識に無いのである。眼中に無ければ、意識にも存在しないのである。

 幼少の頃から振り返ると、そう言えば、昔は何かする際には仲良しの誰かが居るっていうのはとても大事だったように思うのだけど、大学生活以降、特に社会人生活になって以降は、第三者が居るよりも、全くの個人での行動の方が心地よく満足度も高いという考えが過ごし易いと思い始めたのである。
 例えば、単車での山間部のつづら折れの道を繋ぐような山岳ツーリングなんかの場合は、人と連れだって走るよりも一人で気の向くままに自分のペースで走りまわる方が遙かに満足度が高いように思うのである。
 勿論、集団で連みながらの旅行等も嫌いではないけれど、連んで友好を深めるという目的が一意で無い行動の場合は、殆どの行動において、単独行動の方が心地よいと思うのである。

 他人が居る場合と居ない場合の感情の違い、、、恐らくは、行動が習慣化して、行動の目的が自己完結となるような場合は、何かをする際には、誰も居ない(気を遣う必要が無い)方が集中して出来る分心地よいと感じるのだろう。
 逆に、そのような状況でない時、例えば、映画鑑賞とか、、、そんな状況では他人と行動を共にした方が楽しいと思うのかもしれない。
 結局は時と場合、場面によって違うんだが、、、、、この辺の兼ね合いっていうのが、何故だか結構難しいのである。

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2008年4月15日 (火)

親の趣味?子供に強制?

 月曜の今日は幼稚園の会合等の家事都合で定時帰宅した。
 で、用を済ませ帰宅してからはルイガノ号に乗ってニシダサイクルさんに出掛けたのである。目的は、娘のニューマシンの前カゴが入っているかも?と言う話だったんで、入っていれば持ってきて貰うお願いをしに行くのと、少々の小細工を施しに行くためだ。

 そんな感じで出掛けたのだが、残念ながらブルーの前カゴは入荷していなかった。後は前カゴだけである。そんなニューマシンはRITEWAYのZIT2020というモデルでライムグリーンの自転車だ。この自転車、幼児車ながら多段ギア+アルミフレームで軽量というモノで、既に親の趣味が相当に入った状態。

 これだけでも過剰なんだが、親バカぶりが納車前カスタム行為に現れている。

 娘は水色が好きなのは日記にも書いたけど、これはプリキュア5のキュアアクアが好きというところから来た好み。

 で、ベルを水色に交換して、水色のLEDライトを装着、そして前カゴもBSの少女向けMTB風自転車の水色のカゴをオーダーしている。更には、ペダルもブルーのプラペダルに交換しているのだが、子供の要求項目以外で自分が交換した所といえば、Vブレーキマウント固定式馬蹄錠、アルミ中空前キャリアに、幼児の脚力を考慮して1.75サイズのブロックタイヤから1.50サイズのスリックタイヤに交換。更には、水色ボタンのサイクルコンピュータ迄付けてあったりする。完全に親の趣味で親の自己満足状態となっている。

 一応、フル装備状態だが、この自転車、幼稚園児の娘とは懸け離れているようにも感じてしまうところ。納車は来週日曜日を予定しているけど、反応はどうだろうか?楽しいような、、、、、何とも言えないところだ。

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2007年12月21日 (金)

歳取って変わった考え方

 最近の関心事は、何と言っても健康についてである。35歳になるまでは、そんな事は全く考えず、健康である事は当然の事だと思っていた。

 それ故に、元来の性格、負けず嫌いの、何でも一番が好き、凝り性という性格から、給料は多い方が良い!昇給、昇進、成績も当然そう!そのためになら、誰にも負けない事が出来るようになる!って気持ちを持っていた。

 しかし、、、、

 最近は、そういう感覚は皆無に近いのである。性格的には、相変わらず凝り性だが、それ以外の事に関しては、あんまり気にならなくなってきた。というよりも、他人と競う事自体が関心が無いというか、嫌になってきたのである。役職、給料についても、まぁ、どうでも良いか!って気持ちの方が多いのである。

 それは、何故か?っていうと、、、、

 やはり、健康であり、命という限られた時間を如何に過ごすか?を考えた時に、優先順位の上位には、学業や仕事や、生活の裕福さよりも別の事が来たためである。

 一番大切な事は何か?というと、昔から言われている健康第一で、好きな事を好きなように出来る身体が大事ということである。好きな事をやるには、健康な身体が長期間維持出来ていないと出来ないのである。判りきっていた事だし、誰もが言っていた事だが、要約、自分にもそういう感覚が芽生えたのである。

 その理由は、何か?というと、

 実は、自分と同世代の人間の多くが、今社会問題になっているような健康を脅かす要素によって、回復不可能なような疾病状態に陥ったり、命を落としているからである。同世代の人間で両手の指で足らない程の人数の友人が、命を落としたり、長期入院による闘病生活を行ったりしている様を目の当たりにすると、同じ時代を過ごした同世代の自分にも等しくそんな事態が襲いかかってもなんら不思議はないと思っている。

 昨今の命を脅かす、生活習慣病、癌のような病について、一般的には個人の生活習慣の影響が大きいと言われているが、自分としては、同じ時代を生きる人間のライフスタイルがそんなに差があるか?というと、それよりも、時代によるライフスタイルの共通性の方が高いために、世代毎の社会問題として、頻度の高い疾病が現れるのでは?と考えている。
 それ故に、周りの人間に襲いかかった癌、腫瘍、糖尿病・・・・っていうのは、リスク因子を自分も持っていると思っている。

 これ程までに、同世代の友人がやられると、ハッキリ言って怖いのである。そして、その恐さを逃れるには、今の時代を作る価値観とは別の価値観の上でライフスタイルを構築するしか無いのでは?と考えている。それ故に、5年前の今では、考え方が全く変わってしまったのである。

 考えてみれば、昔は定年が55歳がデフォルトである。それが今や65歳になろうとしている。今の就業世代は、様々な現代病と闘いながら、その時迄過ごすのである。過ごす過程の中で充足感が得られるか?というと、それは極稀であり、多くがストレスを抱えたり、惰性で、時間に追われる生活を強制されている。
 その結果、自由に動く身体も、自分の本心さえも忘れ、その時を迎えるのである。その時を迎えると、自分で出来る事の選択肢は大幅に制限されており、その範囲でレールに乗った楽しみしか味わえず、そうやって人生を終えるってのは、あまりにも寂しい。
 まだ、その時を迎える事ができたならマシな方で、その道半ばにして、身体的な破綻により、身体を失ったり、精神的な破綻により心を失ったりする。それが、今盛んに放映されているテレビの特集番組でも紹介されている。

 そんな事を考えると、馬車馬のように働く人には申し訳ないが、程々に働いて、自分の好きな事に拘り、好きな事が出来る心と身体を維持するってのが一番大事なように思うのである。
 勿論、それには資本が必要だが、金儲けも無尽蔵に求めるではなく、自分のしたい事を等身大レベルで出来る程度以上は不要であり、あくまでも儲けた金は、したい事をするための道具にしか過ぎず、それは目的では無いのである。
 よく、金が無い(少ない)から頑張って(無理して)働く(長居(残業)する)って話を聞くけれど、それなら時間で稼がず、効率アップすれば良いのである。効率アップ=価値アップであり、人が出来ない事をすれば単価はアップ出来るのである。それをせずして、不平不満嫉妬っていうのはNGだ。逆に、そういう評価指針を自分で持っておけば結果は付いてくるし、そういう評価を自分で適切に評価(待遇にたいする満足度評価)できれば、その後の進み方(頑張るか?怠けるか?転職するか?独立するか?)も決める事ができる。要は、自分で今を受け入れる考えが持てるか否かが大事である。辛口になるが、ライフスタイルが自分の支配下におけるかどうかが大事であり、そのために、周りと闘うこともあるし、理論武装の必要も出てくる。全ては自分の思い通りに動かすための道具にしか過ぎないのである。
 そのスタイルを維持する目的とは、自分のやりたい事が十分に出来る心身のコンディションを維持する事こそが最大の目的であり、限られた時間(24時間/day)に、十分な睡眠時間+健康維持時間+家族との対話時間+趣味用時間を絶対に確保するという強い意志を持っている。

 睡眠時間を削って働くとか、働きすぎて遊びや対話を失うってのはナンセンスなのである。

 ここ3年で、4人の友人を失い、闘病中の友人も2名居る。みんな、頑張りすぎである。頑張る目的は人それぞれだが、命あってのモノである。命とは、身体と心の健全性であり、これは見失いたくないのである。
 加齢に伴い身体の不具合、病変前兆は現れてくるだろうけど、可能な限り、予防的対策は講じておきたいものである。

 ただ、こういう考え方とは別に、働く事で生き甲斐を感じ、最後の一瞬まで会社に尽くして勤め上げる人生も、それはそれで幸せだろう。仕事が生き甲斐というか趣味というレベルに昇華した人も居るけれど、それはそれで尊敬に価するものだ。そんな人生もアリかもしれないが、唯一受け入れがたいのは、そういった尊敬できる人の伴侶であったり、御子息の姿を見ると、そういうスタイルが人間的か?という点において完全には同意し難い面があるのが否めない。

 年の瀬を迎えると、色んな事を考えるが、それも良いものだ。こうやって、日記に残す事で、将来において過去の自分が何を考えていたか?が判るのも面白い。

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